絶煙のむくい

 イラスト:© ザ・プランクス   

 

 

プロローグ

 鼓俊一は妻の典子が肺がんで亡くなったとき、SNS上の友人とのやり取りを介してはじめて自分の喫煙が妻の死の遠因かもしれないと気づいた。

 典子はほぼ1年前、腺がんのステージ4と診断された。肺がんの一種である腺がんは、女性や非喫煙者が罹る病気とされる。

 本人にも夫の鼓にとっても寝耳に水のできごとだった。がんという病気自体もそうだが、末期のステージ4という診断がにわかには信じられなかった。だがそれはまぎれもない現実で、発見が引き金になったのでもあるかのように妻は強い痛みを訴えはじめた。幸い緩和ケアが行き届いた病院での治療だったため、典子は短い苦悶の時間をすごしただけで旅立った。

 発見から死までの間、鼓は驚きと失意と無力感の底で、妻の看護に明け暮れた。体の多忙と気鬱の巨大のせいだったのか、鼓は妻の肺がんと自らの大量の喫煙を結びつけて考えることはなかった。

 喫煙による健康への悪影響がうるさく言われだした1980年代まで、鼓は会社でも家でもどこでも、大量の煙草をすい続けた。だがところかまわずに喫煙するその習慣はほぼ40年前に終わった。鼓はそのころに禁煙宣言をした。しかしそれは表向きで、かれはひそかに喫煙を続けた。そうはいうものの禁煙宣言をした手前もあり、以来かれは家の中ではいっさい煙草をすわなくなった。

 妻の受動喫煙についてまったく意識が及ばなかったのは、それが原因だった。また妻のがんが、喫煙とは関係がないとされる腺がんだったことも、かれの想像力にブレーキをかけていた。

 妻の死からひと月ほどがたったある日、鼓は悲しみを紛らせたい思いからSNS上で彼女の死について告知した。

 かれは退職後に暇を持て余してSNSを始めた。10年あまり前のことだ。まもなく70歳代も終わろうとする今も、鼓は日々の出来事を発信しSNSの友の投稿を楽しむ。

 妻の死を悲しむ投稿にはすぐさま多くのお悔やみが寄せられた。

 その中に喫煙や受動喫煙が肺がんの原因のひとつという説もありますね。奥様は煙草をおすいになったのでしょうか?という書き込みがあった。

 受動喫煙という言葉が鼓の気持ちに平手打ちを食わせた。

 鼓が家の中でも煙草をすっていたころ、妻が子供と自分の受動喫煙についてうるさく文句を言っていたことがあざやかに記憶によみがえった。

 同時に妻の肺がんが、あるいはかれのすう煙草からの受動喫煙によって形成されたかもしれないと気づいた。

 40年ほど前の、煙草をめぐる自分と妻の確執を思い出して鼓は胸が苦しくなった。

アメリカ事情

 当時、典子がますます口うるさくなったのは、俊行が日本に帰ってからのことだった。酒はいい、煙草だけはやめてくれ、と主張する典子に、いややめない、禁煙がはやっているから俺も煙草を断つというのは主義に反する、と鼓は言いかえして夫婦はことあるごとに言いあらそっていた。

 鼓は性格的に、大勢が右に向かうから自分も右に顔をむける、ということができない。主義に反する、というのは少しおおげさだが、世の中の風潮が禁煙にかたむいているからといって、やめたくもない煙草を断つのはいやだ、というのはかれの本心である。しかし、こと禁煙問題に関するかぎり、妻と俊行への反発心がかさなって彼は必要以上にかたくなになっていた。

 義弟の俊行は半年前に5年間のアメリカ留学を終えて帰国した。アメリカでは彼は映画の勉強をしてきた。それをいかして仕事をしたいらしいが、斜陽と言われてひさしい日本映画界にはなかなかうまい就職先はない。当面はフリーの助監督として、テレビの仕事をしながら食いつないでいる。フリーといい、助監督と言えば聞こえはいいが、フリーとは不定期にしか仕事がはいらない、潜在失業者のことであり、助監督とはプロの映画作りを実地に勉強させてもらう雑用係といったていどの職業である。収入はほとんどない。ところが良くしたもので暇な時間はたっぷりとある。そこで彼はアメリカ仕こみの英語力をいかして通訳や翻訳のアルバイトをしながらどうにか生活をしていた。

 帰国した早々から彼は、アメリカではまともな人間は煙草をすわない。義兄さんも禁煙をして1日も早く文明人の仲間入りをするべきだ、と鼓の顔を見るたびに言いつづけていた。

「ほんとよ。広いお屋敷にでも住んでいるならともかく、こんなにせまい家なんだから、少しはかんがえてほしいわ。家族の全員が自分の煙草の煙でひどい目にあっていることなんか、まるっきり頭にないんだから」

 典子はそのたびに俊行の加勢をして言いつのった。

「かなわないな、きょうだい2人に嫌われちゃ。それでなくても姉さんは煙草ぎらいなんだから、あんまり彼女に入れ知恵をしないでくれよ」

 鼓は俊行が帰ったばかりのころこそおおように構えていた。妻のぐちを聞きながして、笑ってそういう余裕があった。最近では少し事情がちがう。

 煙草をめぐる典子のぐちやいやみが日一日と多くなり、トゲトゲしさが増していた。いわく、あなたが煙草を2本すえば、周囲の子供や私はほしくもない煙草を1本分すいこむ計算になるのよ。家族をみなごろしにしたいの。いわく、肺癌になるのはあなたの勝手だけど、家のローンの返済と子どもが大学を終えるまでは死んでも働いてもらいますからね。いわく、煙草のひとつもやめられないような意志薄弱な人間は会社での出世は望み薄と言うわね。あなたもきっと課長どまりで定年ということだわ。結婚する相手をまちがえてしまった・・云々。

 典子はもともと煙草がきらいな女だった。煙草ぎらいな女に色気のある者はいない、というのが鼓の持論である。それを承知で彼は典子といっしょになった。だから彼女の色気のなさと、喫煙に対する時たまのぐちやいや味はがまんする。しかしそれがのべつ幕なしに耳に入ってくるとさすがに腹にすえかねる。

 典子がそうなったのは、俊行が家にやってきて、鼓に禁煙をさせろ、と彼女にしきりに入れ知恵をするからである。喫煙者と肥満体の男は出世できない、という本当かうそか知らないアメリカの話を織りこんで典子が不満を言うのも、俊行に感化されてのことだった。

 俊行は鼓の家から歩いて10分もかからない場所に住んでいる。住まいが近いうえに、アパートでゴロゴロしながら翻訳のアルバイトをしていることが多いから、彼はひんぱんに家に遊びにやってきて、典子に禁煙のススメを説いて聞かせているのである。

 「アメリカで煙草をすっているのは黒人をはじめとする有色人種だけだね。白人、特に上流階級の白人はみんな煙草をやめているよ」

 休みの日の昼食時を見はからって俊行が来ている。俊行と典子は仲がいい。幼いころに両親をなくしていることもあって、身寄りはたった1人の姉弟だけだとおたがいに親しみあっている。そういう2人の間がらだから、鼓は典子を通してはやくから俊行をよく知っている。かれのアメリカ留学に際しては物心の両面にわたって世話をやいてやり、帰国したらしたで礼金と敷金を用意して自宅ちかくにアパートを借りてやったのも鼓である。まだ就職の当てもない弟を心配する典子の強い申し入れもあったが、鼓が俊行をきらっていたらむろんそういう事はおこりようがなかった。

 鼓自身に兄弟がない事情も手つだっているのか、かれははじめから俊行に対しては保護者でもあるかのような親しみを抱きつづけてきた。それはいまも変らない。煙草の件で俊行にすこし腹を立ててはいるものの、彼の気持の底には、血を分けた兄弟でもない鼓に「禁煙をしろ」とズケズケ口にする俊行の率直さをよろこんでいる部分があるから、怒りには典子へのそれとはちがって、はなはだ迫力に欠けるところがあった。

 それでも話がまたしても禁煙のことになると、鼓の気分はおだやかではなくなる。

「残念ながら俺は有色人種で、しかも上流階級じゃないんでね。煙草をやめる理由もしたがってない、ということだ」
 牡蠣フライを口にはこびながら、彼はむっとして俊行に言いかえした。

 昨夜はつき合いでしたたかに飲んだ。飲むとたちまち煙草の量が増える。喉から肺にかけて、ひりひりと焼けるような痛みがかかっていた。こういう日は朝起きてからしばらくの間は煙草をすう気になれない。会社のある日でも午前中はすわずにいて、昼食後にまず一服、ということになる。

 今日は土曜日である。週休2日制の会社はやすみだ。鼓は12時過ぎまで寝ていて、1時前にはじまった食卓に家族とともについているところなのである。それまで煙草のことをおもいだすだけで胸がむかつく気分だった彼は、俊行の話にたちまち反発心を呼びおこされて、無理をしてでもすってやる、とおもった。

 「別に人種差別のつもりで言っているんじゃないよ義兄さん。アメリカでは収入の多いインテリ層の人たちは、健康への関心が高くて禁煙するケースが多い、というだけさ。たまたま黒人や有色人種は低収入の層に属していて、しかも喫煙者の数が圧倒的に多いということ」

「俺はブルーカラーじゃないかもしれないが、だからといって上流階級でもないね」
鼓はむきになって俊行の言葉尻をとらえて踏んばる。

「この貧しい日本国で、大昔から週休2日制を敷く余裕があった大会社の課長はりっぱな上流階級だよ義兄さん」
俊行は別に揶揄する気もないらしいきまじめな顔で、箸で宙を突きながら反論する。

「上流階級?お金もないのにばかなことを言わないで、俊行」
典子が鼻でわらった。

「金がありあまっているという意味ではなくて、インテリで高給取りでホワイトカラーで、ということ。りっぱな上流階級だ」

「どうだか。大学を出ているのだからインテリでホワイトカラーというのは百歩ゆずってみとめるとしても、絶対に高給取りじゃないわ。煙草代が家計にひびく程度の給料取りよ」
典子が冗談めかしたつもりで口元だけのゆがんだわらいをうかべる。牡蠣フライとご飯と新香が口中で唾液にからんでいるのが見えた。

「そりゃそうだ。高給取りの女房はたいてい品良く飯を食うものさ」
鼓は悪態をついた。

 アメリカ、アメリカと題目でもとなえるみたいに言う俊行もしゃくにさわるが、おもいやりというもののひとかけらも見えない妻の態度にはもうがまんができない。この場で堂々と1本すってやる、と居間に置いてある煙草を取りに行きかけてかれは思いとどまる。娘の香織が両親のとげとげしいやり取りに困惑して、箸をとめてじっとこちらを見つめている。彼は娘のために、これ以上のいさかいをしないことにした。それでなくても昼食はすっかりぶちこわしになっていた。

 騒ぎの発端になった俊行は、ずぶといのか単に鈍感なだけなのか、すこしもあわてないで食事をたいらげた。食べ終えるとすぐにべそを作って落ちこんでいる香織を居間にさそって、なにごともなかったかのように遊び相手になってやっている。

 典子はあそぶ2人の脇のソファにすわって、次女の由樹にミルクを飲ませはじめた。

 鼓は、ガラス戸でしき切られた居間の縁側にすわって一服している。居間から追いだされたようではらだたしいが、妻の腕のなかで無心に哺乳瓶の乳首をすっている赤ん坊を見ると、とても部屋のなかで煙をまきちらす気にはなれなかった。いくら注意しても煙をあらぬ方向に吐きだしても、せまい居間の空気はみるみるうちによごれていくのがわかる。子供の小さな体に毒をふきこむようでかれは落ちつけなかった。

「アメリカに行ってすぐに煙草をやめたのか、俊坊」
鼓は縁側から声をかけた。昔からの習慣で鼓は彼を俊坊と呼んでいる。

「2年ぐらいはむこうでもすっていたよ。なかなかやめられなくて禁煙にはずいぶん苦労しました」

 俊行も以前は煙草をすっていた。鼓と同じブランドの煙草だ。すい始めたのはちょうど鼓と典子がいっしょになったころのことである。当時かれは2人のアパートにひんぱんにやってきては、わがもの顔で鼓の煙草を失敬していた。若いから粋がるところもあったのだろうが、あの頃は俊行のほうが鼓よりもよっぽどヘビースモーカーだった。

「どうしてやめようと思ったんだ」

「このあいだも言ったでしょう。煙草なんかすってるとバカにされるからだよ。体にはわるいし、女の子にはもてないし」

 鼓は2本目の煙草に火をつけた。食卓でのやりとりりに腹をたてて、これ見よがしにはじめの1本に火をつけたときは、胸が焼けるような不快感があった。不快感はずっとつづいた。それでも1本をすい終えると惰性で次の1本に手がでた。はじめの1本ほどの胸のむかつきはない。が、しびれた肺に棒を差しこむようないやな感じがのこる。

 左手の中指と人差し指でフィルターをはさみ、その端を親指でおさえて立ちのぼる煙を見ながら、(こんなもの、いつやめてもいいんだが…)と彼は胸のなかでつぶやいた。

 鼓の会社でも禁煙に踏みきる者が増えている。最近の例では常務の市村がそうである。市村は近い将来、同じ常務の平沢と社長の座をねらって競い合うと目されている実力者である。彼が禁煙をしたというニュースは、その日のうちに社内を駆けめぐった。それから1週間も経たないうちに、営業三課長の田代も禁煙に踏みきった。田代は早くから社内では市村寄りを表明している男である。彼はボス禁煙の話を聞いて、すぐにそれを真似することにしたらしい、というジョーク交じりの噂が立ち騒いだ。

禁煙は黒か白か。引き算ではない

 酔って帰った晩、鼓はとなりに寝ている典子に手をのばした。典子はとたんに体をかたくして、

「赤ちゃんが目をさますわ」
と突きはなすように言う。

 生後8ヶ月の由樹は典子のむこう側の子供蒲団に寝かされていた。夫婦はここ2ヶ月ちかくも交渉を持っていない。鼓の帰りが毎晩おそいこと。つかれていること。典子にそのことへの不満がないように見えること。時をかまわわず泣きだす赤ん坊への遠慮…さまざまな理由があった。が、いちばん大きな理由は、なんといっても煙草の件で夫婦が言いあらそいをくりかえしているところにあった。

 鼓はものごとを根に持つたちではない。夫婦喧嘩のときも花火のように感情をたかぶらせて、あとくされがないのがふつうである。煙草のばあいもやめろ、やめない、で典子といがみたったあとは、きれいさっぱりと忘れてしまいそうなものだが、なにしろ煙草は毎日口にくわえるものである。典子はそのたびにひと言いわないと気がすまない。鼓は言われるとだまっていない。結果はのべつまくなしに花火が爆発している、といったぐあいになる。

 たまに典子が1人で起きて鼓の帰りを待っている日がある。そんな日は彼女は、帰宅して煙草をふかす夫を見ても見ぬふりをしている。そうなると鼓は、妻の沈黙が気になってしかたがない。わざとらしいと思う。照れる。彼のぎこちない心理状態は典子にもつたわって、2人はおたがいにいよいよ気が張ってくる。夫婦のことだから、余計なことをかんがえずに彼女にのしかかっていけばすべてうまくいくはずなのに、彼はぐずぐずしている。タイミングがおかしくなる。やがて典子がそっぽをむいて自分の蒲団にもぐりこむ。鼓はそれを見て、なぜかむっとした気分で彼女につづく。そんなことがくりかえされていた。

 無視して、妻の胸をまさぐって、身をおこして彼女の上におおいかぶさった。顔をつきだして典子の唇をさがす。典子はふいのことにおどろくのか、眠りを中断されて不機嫌になるのか、さらに体をかたくして抵抗する。鼓は高まってひるまずに動きをつづけた。

「やめてよ。煙草くさい」
低い、するどい声で典子が言った。言っておいて、しまった、というふうに口に手をあてている。鼓は体の芯に電気を通されたようなショックをうけた。一気に萎えて、腕立て伏せを中途でやめたような格好で彼女の上に体をとめた。

 かれは相手の気持を誤解して先走り、こっぴどく拒絶された思春期の少年のようにとまどっていた。

 その気になればいつでも押し入ることができる、と思いこんでいた妻がひどく遠い存在にかんじられた。がくりと右腕をたたんで、寝がえるように自分の蒲団にもぐりこんだ。屈辱感が強烈にかれをおそっていた。

 煙草をやめよう、と鼓が決心したのはそれから間もなくのことである。

 無数にでてくるいざこざ、小言の投げあいのひとつ、とかれが高をくくっていた煙草の件は、その夜を境に夫婦の間に不透明ないやな緊張感をもたらしていた。

 典子は翌日から煙草のことをいっさい口にしなくなってしまった。俊行もおなじである。かれが鼓と顔を合わせて煙草の話を持ちださないのは、帰国以来はじめてのことだった。あきらかに典子に口どめをされている。すべてての気づかいがよけいに彼の気をおもくした。このままほうっておけば、妻との間に埋めきれないふかい溝ができてしまう、とかれは不安になった。

 誰にもそのことを告げずに鼓は禁煙にふみきった。

 1日目にかれは早くも挫折した。

 朝目がさめると鼓はまずちかくに子供がいないことをたしかめて煙草に火をつける。それは寝室である日もあるし、居間である場合もあるし、あるいはトイレ内だったりする。朝食後にも1本ふかす。家を出て駅まで歩くあいだにも1本。都心で電車を乗りかえるときもたいてい1本に火をつける。混雑がはげしく、しかも禁煙地帯が多い駅の構内ではほとんどそれを楽しむ余裕はない。しかしかれはどうしても1本を灰にしないと気がすまない。通勤の最後では、地下鉄の駅から地上にむかうあいだにさらに1本を箱から抜きだす。会社に入ったあとはたてつづけに煙草をすっている、というのがかれの喫煙状態である。本数は1日にだいたい2箱から2箱半というところにおちつく。酒を飲むと日によってちがうが、その倍ちかい量になることもめずらしくない。

 鼓はその日、朝起きてから会社に入るまでの5本をすんなりと断った。通勤の途中ではいつものくせで胸ポケットになんども手がのびた。そのたびに思いとどまった。

 やめる決意をしてもかれは煙草とライターを胸ポケットに入れていた。腹をきめれば煙草などいつでもやめられる、と鼓は自信をもっていた。禁煙をきめると同時に煙草やライターを捨ててしまうのは、自信のない人間のすることである。彼の自負心は煙草の煙が充満している社内に入ってもゆらがなかった。鼓はいつものように煙草とライターをデスクの上において、悠然と仕事をはじめた。

 10時半から会議がはじまった。せまい会議室には換気口に入りきらない煙草の煙が、朝なぎの海の霞みたいにしばしば上空にただよった。会議に出席している管理職の多くが喫煙者である。禁煙した重役の噂が社員の関心を集めたりもするが、やはり煙草のみの数は多い。

 鼓は会議の途中で体の異変におそわれた。

 頭のなかにぬるい薄い霧がたちこめるような感じがまずあった。かれは血圧が低くて朝はよわい。朝起きてしばらくのあいだ、かれの頭のなかは今のようにはっきりしない状態になることがある。

 霧がふいに濃くなって一瞬まっくらになった。左手に奇妙な感覚がある。手の甲を枕にうたた寝をしてしびれた時のようである。しびれは間もなく小指に集中して、そこだけがぴくぴくとけいれんした。が、見た目には小指にはなんの変化もない。そんな感じがするだけなのである。鼓はあたりをはばかりながら、なんの異常も感じていない右手の親指と人差し指でそれをはさんで軽くマッサージをしてみた。

 感覚がなくなっている。不安になった。つづいて頭の内側を大きな輪ゴムかなにかでぎゅっとしめつけられるような刺激がはしった。痛みというのではない。頭の機能を停止させる魔術にでもかかったみたいな、薄気味のわるい圧迫感である。

 一連の変調が地震のように次々に体内をはしった。と思う間に輪ゴムがゆるむ。強風にふかれるように霧がすっと晴れた。頭のなかが涼しくなる。しかし左手小指にはビニールをかぶせたようなしびれ感がそのまま居すわってしまった。

 会議が終わった。

 鼓は営業2課の自分のデスクにもどって、会議室で配られた30ページあまりの書類に目を通しはじめた。

 ふいに頭のなかに霧がわいて、小指がぴくぴくとけいれんした。輪ゴムがぎゅっとくる。目は書類の文字を追っているが、意味がまったくつかめなくなった。左の小指を右手でもみほぐそうとムダな努力をしながら、おなじ行をなんども読みかえす。あせりがこみあげて頭のなかは混乱するばかりである。

 急に煙草がほしくなった。同時にこれがニコチンの禁断症状だと気づいた。禁煙に入って10日ほどは相当につらいという話はよく耳にしていた。が、実際にどうつらいのかは鼓はしらなかった。これがそうだとはじめて納得した。

 2度目の発作は会議室での最初のそれよりも長くつづいた。手のひらに脂汗がにじみでている、と鼓が気づいたとき波がかえすように霧がはれた。頭の内側の圧迫感が消える。が、小指にはやっぱりしびれがのこった。

 はじめのときは発作へのショックがかさなったせいか、前後に大きな落差をかんじた。発作のあとでは頭のなかが凛と冴えわたるような気がした。今回は余韻がうすい幕を張ったようにのこってすっきりしない。煙草への欲求が耐えがたいくらいにつよくなった。それを振りきって鼓は書類の文字に集中しようとした。2頁ほど読みすすんだとき、再三発作の波がおしよせた。

 書類は緊急に目をとおして、他の課の責任者にまわさなければならないものである。かれはいらいらして大声をあげたくなった。ふと見ると、係長の吉川が部下のデスクに寄って、なにやら話なしがらうまそうに煙草をふかしている。駆けだしていって煙草をうばいとり、おもいきりけむりをすい込みたい衝動におそわれた。

(今日は日がわるかった。書類を読み終えるのが先決だ)

鼓は自分に言いきかせた。飢えたハイエナみたいにあわてて煙草の箱から1本を抜きだして口にくわえた。一服する。かすかに目がくらんだ。2度目に煙草をすい込んだときは、ニコチンがじわと血管にしみとおるのが見えるような気がした。吐く間ももどかしく、鼓は煙を深々と肺に送りつづける。頭のなかのもやもやが吹きとんでさっぱりした。小指のしびれ感も嘘のようになくなっていった。

 書類の言葉の流れがすらすらと頭に入る。彼は文章にまぎれこんでいる誤字に気づく余裕さえ出てきた。

 2本目の煙草に知らずに手がのびた。鼓は気づいてちょっとためらった。せっかくここまできたのだから1本でがまんしようか、と自問した。

(しかしまた発作が来たらたまらない。それに1本すってしまえばもう同じだ)

とたちまちうまいいい訳をおもいついた。2本目に火をつけた。

 その後はとめどがなかった。鼓は結局、退社時間までにいつもよりも多めの3箱60本の煙草を灰にしていた。

 明日からもう一度出なおしだ、とかれは帰りの電車の中でつぶいていた。その日はじめて体験した禁断症状がすこし気になっていた。が、まがりなりにも朝からしばらく煙草を断つことができたのがなぐさめになっていた。重要書類に目をとおさなければならなかった不運さえなければ、今日1日煙草なしで済ませられたような気もした。前途はあかるいとおもった。

 鼓の胸ポケットには地下鉄の駅で買った煙草が入っている。彼は電車を待つあいだに箱をあけて、すでに1本を抜きだしてすった。会社がおわった時点で再び禁煙をはじめてもよさそうなものだが、鼓はどうせならもう1度朝からやりなおしたかった。物事にははじまりのタイミングがある。1年の計は元旦にあり。長年慣れしたしんだ煙草を断つという大事業は、きっぱりとけじめをつけて朝から開始しなければ、かれはどうにもおさまらない気がした。

 9時前には家についた。

「おかえりなさい。早かったんですね」

めずらしく典子が玄関に出てきた。

「ああ。仕事のあとで麻雀にさそわれたがことわってきた。俊坊、来ているのかい」

玄関に俊行のスニーカーが脱ぎおかれている。長身の俊行は足も大きく、スニーカーはすぐに彼のものとわかる。

「よし、ひさししぶりに2人でいっぱいやるか」

鼓は言っていきおいよく床に上がった。

「飲んでいるんですか」

典子は鼓の意外なあかるさにおどろいてうしろから声をかける。

「これから飲むんだよ。なにを言っているんだ」

ふりむいて彼は返した。立ちどまる夫にふいをつかれて、典子の体はかれの胸にぶつかった。

「あ、ごめんなさい。そうですね。いま準備します」

あわてて言う彼女の顔が上気していた。くるりと背をむけて小走りにキッチンに消えた。まるで小娘のようなうしろ姿だと鼓はおもった。

 「パパ、おかえり!」

俊行といっしょにテレビを見てた香織がいちはやく鼓に気づいてさけんだ。

「あれ。早かったんだね義兄さん。どうしたの?」俊行は相変わらずのんびりしている。「早めに電話でもくれれば,夕食を待っていっしょに食べたのに」

まるで自分の家にでもいるみたいにけろりとして言った。姉の気づかしいなんかすこしも知らない。鼓は苦笑した。こういう大ようなところが俊行の良さだ、と素直におもった。

「うん。俺もこんなに早く帰れるとはおもってなかったんでね。ちょっといっぱいやろうか」

「おっ、待ってました!」

俊行は指をぱちんと鳴らしてよろこんだ。

 赤ん坊を寝かしつけたあとで典子が酒宴に加わった。

 「俊坊、俺すこしずつ煙草の本数を減らしていくことにしたよ」

自分の口から禁煙話を持ち出すことはぜったいにしない、ときめていたにもかかわらず、鼓は言ってしまった。少し酔いがまわって舌のすべりがよくなっていた。それでもさすがに禁煙をするとはいわず,本数を減らすという言いかたをした。

「ほんと?」

典子が横あいから身を乗り出した。彼女は今夜は機嫌のいい鼓に影響されてうきうきしている。いつもなら「どうせ口先だけでしょ」「3日ももてば上等だわね」という類のにくまれ口をたたくところである。

「減らすって、つまり最後にはやめるということ?」

俊行はすこしも感動しない。

「え?まあ。うまくいけばそういうこともあるかもしれない」

鼓は頭をかいた。ぜったいに煙草はやめない、とがんこに言いつづけてきたかれである。たちまち禁煙宣言をするのは気がひける。

 「だめだめ。そういう中途半端なやりかたは絶対にだめだよ義兄さん。煙草はここできっぱりとおさらばするか、すいつづけるかのふたとおりしかない。禁煙は引き算じゃないんだ。数を減らしていって最後にはゼロにしようなんてやりかたじゃ成功しない。白か黒か、それしかないよ」

俊行は断固としてつっぱねた。それはいい考えだ、とはげます気なんかこれっぽっちもない。

「そうかな。すこしずつ減らしていけばそのうちにはやめられるんじゃないの」

俊行の好意的な反応をすくなからず期待していた鼓はがっかりした。

「煙草はね義兄さん、1本すっても30本すってもおなじ毒なんだよ。とくに長いあいだすっている人間にはね」俊行はあわれむような声になった。「数がすくなければ体には毒がすくないという話を聞くけど、あれは煙草会社の陰謀だよ。やめるのなら、すぱっとひと息にやめるべきだ」

「でも本数を減らすと決心しただけでもいいことよ」

典子が今度は鼓の肩を持つ。

「今すぐにやめようという気にはなれないんだ。煙草は好きだからしょうがない。すこしづつ本数を減らしていって、その気になればやめるさ」

鼓は内心、いまにびっくりさせてやるから見ていろ、といたずらっぽく考えながら、わざと気おちした声を出した。

小指の思い出

 鼓は5時間後に目がさめた。それ以降も前日とおなじように煙草を断ちつづけた。

 禁断症状はその日も11時ごろからかれを悩ませはじめた。

(禁断症状だ。これをがまんすればいい)

鼓はなんども自分に言い聞かせながら仕事をすすめていた。

「課長。小指、どうかなさったんですか」

いつのまにか係長の吉川が鼓のデスクの前に立っている。鼓は無意識のうちに左の小指を右手で包むようにしてもみほぐしていた。

「あ…いや。ちょっとね」

彼は気づいて、あわてて手をはなした。ふと見ると、部下の1人ひとりがそれぞれの机の前にすわっていぶかし気にこちらをながめている。どうやらかれは知らずに長いあいだそうしていたらしい。ひや汗が出た。

「認めをいただければ、これで経理のほうにまわしますが」

吉川がデスクのはしに置かれている清算書をかれに押しやった。それは先刻かれが鼓の認印をくれと言いのこしておいていったものである。

 鼓はそのことをすっかりわすれていた。かれがいつまでも書類に目をとおさないので、吉川はようすを見にやってきたものらしい。

「や、すまんすまん。ちょっと考えごとをしていたのでね」

鼓は書類を手元にひき寄せた。

 ぱらぱらとそれをめくりながら、右手を煙草の箱にのばした。1本をぬき出して口にくわえる。火をつけるつもりはなかった。口にくわえていれば気がまぎれると思った。煙草をくわえたとたんに、吉川が自分のライターをさっと出して火をつけた。考える間もなく、鼓は顔を前につき出して煙草の先を火のなかに入れた。

 しまった、とおもった。よけいなことをするな、と言いかけて、ぐっと言葉をのみこんだ。部下の親切をあだで返してはしめしがつかない。ままよ、と一服深々とすいこんだ。たちまち気がはれて、世の中があかるく見えた。

 それから先はタガがはすれたように節操がなくなって、鼓は次々に煙草をぬき出していた。

 次の日は昼食までふんばった。社員食堂でカツ丼をたいらげたとき、猛烈に煙草がほしくなった。腹がふくれるとかれはいつも一服したくなる。それをよく承知しているから、鼓はわざと煙草をデスクにのこしてきていた。手元にないとよけいにすいたくなる。逆効果もはなはだしい。茶と水をがぶ飲みしてまぎらそうとした。無駄である。気がおかしくなりそうになった。

 ふと見まわすと、営業三課所属の顔見しりの若い社員2人が、食事をおえて極楽顔に煙草をふかしている。鼓は矢もたてもたまらなくなって席を立った。

「すまないが煙草を切らしちゃってね。1本もらえないか」

「あ、2課長。どうぞどうぞ」

ひとりが箱をふって1本を押しだした。

「わるいね」

鼓がそれをぬき取ると、あとのひとりがすかさずライターの火を差しだした。

 一服の力はあいかわらず絶大である。鼓はたちまち生きかえった。

 11時から昼食にかけての時間帯にかれはいつも挫折した。朝起きてから会社に入るまでのあいだをうまくきりぬけて、今日こそは、と誓いもあらたに鼓は仕事をはじめる。仕事はいつも山積している。頭のなかが霞がかったようにはっきりしなくなり、目まいまがいの症状がやってくる。こらえて仕事をすすめる。11時を過ぎるころになると仕事の遅れが目だってくる。いらいらする。鼓はこらえきれなくなって、急ぎニコチンを取りこむ。なんとかそこを切りぬけても、昼食後にはやはり誘惑に負けて煙草に火をつけてしまう日がつづいた。 

 ウィークデーの失敗にこりたかれは、土日のやすみを利用して禁煙を達成することにした。なにはともあれ1日24時間を完全に禁煙することが大事である。週末のどこかでそれができれば、あとは水が川を流れるようにスムーズにことが運ぶにちがいない。

 決意もむなしく、土曜日は接待ゴルフにつきあわされて鼓はあっけなく禁をやぶった。

 煙草の煙が充満する会社とは別世界の、空気の澄みきったグリーンに足を踏みこむやいなや、かれは禁煙の誓いを先にのばしたくなった。ぐっとこらえてコースを回りはじめた。発作が起こってクラブをにぎる手がおぼつかなくなる。それでもがまんした。

 クラブハウスに入って屋外でビールを飲んだ。すきっぱらにアルコールがしみ込む。接待相手のふかす煙草の煙が風にふかれてかれの目の前にただよってくる。鼓は鼻の穴をそっとひらいてそれをすいこんだ。せつなくなって1本に火をつけた。汗をながしたあとの煙草は格別な味がした。

 日曜日には腹をくくって禁煙にいどんだ。

 鼓は10時に目がさめた。ゴルフ疲れでよく寝たせいか爽快な気分である。近来めずらしいすっきりした朝だ。禁煙に挑戦していらい、さすがに煙草の本数がへっている。おかげで体調がよくなったのか、とかれはおもう。

 遅い朝食をとった。食べたあとも食卓にのこって新聞に目をとおしていた。さっそく煙草がほしくなる。体調がいいとそれに並行してニコチンへの欲求も強くなるものらしい。いつにもまして不満感がつのる。ぐっとこらえつづけた。

 昼前に1人で散歩に出た。駅の踏切をわたって、線路ぞいの民家の前をしばらくあるいた。ところどころに茶畑が見えてくる。このあたりまでくると、家と空き地が日に焼けて皮のむけた背中みたいに勝手気ままな配置でひろがっている。雑木林や竹林も多い。そのあたりもやがては造成されて家が建つのだろう。

 犬を連れた初老の男が、茶畑のなかのいっぽん道をこちらにやってくる。煙草をふかしている。犬に引かれて立ちどまる。白い小さな棒の先からひとすじの紫煙が立ちのぼて大気に飲みこまれていく。そこまで気がまぎれていた鼓は、また煙草がほしくなってしまった。苦しい。男とすれちがうとき、よほど声をかけて1本分けてもらおうかとおもった。かろうじて耐えた。

 禁断症状は判で押したように一定の間隔をおいて高波になって寄せてはまたかえしていく。すくなくとも会社のなかの限られた空間で、他人のふかす煙草の煙に巻きこまれるばあいはそうである。ところがゴルフ場や戸外の散歩道のように気のまぎれやすいい広い場所にいると、発作は不規則にやってくる。それにはきっかけがある。煙草をすっている他人を間近に見たときである。ひとのあくびを見て眠気をさそわれるのに似ている。こまったことに禁断症状は眠気とはくらべものにならない苦しみをもたらす。特にふいの発作の場合には、前震のまったくなかった大地震のようである。エネルギーがたまっていっきに爆発するから苦しみが大きい。

 男をどうにかやりすごしたものの、鼓は体内にかんしゃくもちの子供が飛び込んで駄々をこねているような、掻くにかけないつらい気分になった。目の前が闇になり、左手がしびれてすぐに小指に集中する。いてもたってもいられなくなった。

 手のとどく道沿いに茶の葉がしげっている。茶の葉っぱにはカフェインがふくまれている。カフェインもニコチンも同じアルカロイドである。親戚のようなものだ。どこかで読んだ知識が、鼓の脳裡にうかんだ。次の瞬間にはかれは右手いっぱいに茶の葉を引きちぎっていた。口に押しこんでむしゃむしゃと噛む。たちまち苦味が舌を刺した。

 鼓はわれにかえった。噛みくだいた物をあわてて吐きだした。腹が立った。こんなにみじめな思いをしてまで煙草をやめる必要があるのか。たかが煙草だ。好きなだけすってやる。彼は急に気が大きくなった。

 帰る道すがらあたりをかまわずに唾を吐きつづけた。が、口中の苦味はなくならない。家に着いて洗面所でなんどもうがいをした。最後に歯を磨くとようやく人心地がついた。

 口なおしのつもりで縁側に出て一服した。すうはなから後悔した。何かと理由をこじつけては結局禁断症状に負けているだけだ、と苦くおもった。

 典子が庭の物干しに洗濯物をかけながら横目でこちらを見ている。嫌悪感が表情に出ていた。

(今日はじめての煙草だ。文句があるか。俺だって苦労しているんだ)

彼は妻の横顔をにらみつけておもった。たてつづけに煙をすいこんだ。

 鼓は会社の昼休みに本屋に寄って、『禁煙法教えます』という本を買った。先ごろ煙草を断った部下のひとりが、それに書かれている方法を実践して禁煙に成功した、という話を耳にしたのである。

 『禁煙はニコチンによる中毒である。その意味では麻薬と同じだ。まずそのことをしっかりと認識すること。それが禁煙を成功させる第一の、そしてもっとも重要なステップである』

図柄入りの本はそんなふうにはじまっている。煙草がなぜ体に毒なのか、という医学的な事実を具体的にわかりやすく説いたあとで、本はさらにつづける。

 『禁煙には徐々に本数を減らしていく方法と、ひといきにすぱっとやめる2通りの方法がある。ひといきに禁煙に踏みきるのは意思の強い人間のやり方だという考えが喫煙者のなかには根づよくある。それは完全なる誤解である。なぜならば煙草は1本すうと止めどがなくなるのが中毒たるゆえんである。したがって毎日まいにち正確に本数を減らしていくこと、-つまり1日にすう本数を決めてそれを順守すること‐は実は至難のわざである。それができればこの本を読んでいるあなたは、ニコチン中毒などという悲惨な病気にかかることはなかったはずだ!漸減法はふつうは計画どおりに事がはこばず、あるていど本数を減らすとなかなか前にすすまないことが多い。たとえ計画どおりに行っても、完全に煙草を断つ最後の段階ではいっきに禁煙に踏みきる場合とおなじ苦痛がともなう。禁煙は本数の問題ではなく、すうかすわないか、白か黒かの問題である』

(俊坊と同じことを言っている)

と鼓はそこで感心した。

 『煙草は右のような理由で、いっきにやめてしまうのが合理的であり、かつ容易な方法である』

本はそう結んだあとで21ヶ条の禁煙心得をしめす。そのおもなものは簡単に言うと次のごとくである。

一.禁煙を決意したらすぐに,家族や友人や同僚をはじめとするすべての知人に高らかに禁煙宣言をしろ。

  1. ただちに煙草・マッチ・ライター・灰皿等の喫煙器具を屑かごになげ捨てろ。
  2. 喫煙者にキスをするのはよごれた灰皿をなめるようなものである。勇気を持ってこのことを恋人に伝えろ。 
  3. 左の写真をいつも頭に描け。これがあなたの肺である。(癌におかされてただれた肺の切断写真)。
  4. どうしても煙草がすいたくなったらガムやハッカキャンディーを口にふくめ。冷水で顔を洗え。うがいをしろ。歯をみがけ。からだを動かせ。深呼吸をしろ。走れ!
  5. 煙草の害は肺癌にとどまらない。あらゆる業病難病の元をなす。エイズもニコチンに関係している可能性がある。このことを常におもい出せ。
  6. 子供・恋人・愛人・妻にペット・・…愛する者のことをかんがえろ。かれらは知らずにあなたの煙草の煙につきあって墓場をめざして一直線に歩いている。云々―。

 自己暗示のためのモットーのようなものもあれば,具体的な行動指針を示すためのものもある。

 鼓は21ヶ条の中でも冒頭にかかげられているふたつにもっとも抵抗をおぼえた。かれはふだんから家族や会社の同僚にむかって、ぜったいに禁煙はしない、と大見得をきってきた。だから意地でも禁煙宣言はしたくない。典子と俊行には酔ったいきおいで煙草の本数を減らすと言ってしまったが、あれはあくまでもはずみでそうなったのである。禁煙はどうしても人知れずに達成したかった。 同じ理由でかれはふたつ目の心得にも感心しない。なぜならば煙草やライターを捨てて、会社のデスクにある灰皿を処分すれば、それは即座に周囲の人間に禁煙宣言をするようなものである。それはこまる。結局かれははじめのふたつを飛ばして、残りの心得に気をくばってみた。ほとんど効果はなかった。それでも本にこだわっていたあいだに1日半だけ禁煙に成功した。大阪出張に出たときのことである。

大阪慕情

 鼓はその日、朝7時の新幹線で大阪にむかった。起きてからずっと煙草を断った。列車の座席は禁煙車両のそれを買っていたから、その中でもすわずに済ますことができた。またその気も起きなかった。周囲に煙草をすう人間がいないと禁煙はいつもたやすい。

 大阪支社につくと、彼は聞かれもしない前から「禁煙中」だと言いふらした。大阪には鼓が禁煙反対論を唱えていたのを知る者はいない。だから彼は大いいばりでそう口にすることができた。大阪でも禁煙ははやっているとみえて、誰もかれの言葉を聞きとがめなかった。「お、やりましたね」「それはいいことですよ」「うらやましい」私もやめてしまいたいが、なかなか」というぐあいに、むしろ好意的な反応ばかりがかえってきた。たとえ口にはださなくても、誰もが賞賛するようなまなざしでかれを見る。鼓はその日は心なしか、間断なくおそってくる禁断症状がかるいようにおもった。

 夜は支社長の塚原と総務部長の戸山にさそわれ飲みにでかけた。鼓は飲むとかならず煙草がほしくなる。しかし昼間のうちに2人に面とむかって、禁煙1週間目ですと話していた手前、かれははじめけんめいに欲求をこらえた。酔って気がゆるむとどうでもよくなった。鼓は隣にすわっているヘビースモーカーの戸山の煙草をなんども失敬しようとした。そのたびに塚原が、せっかく1週間も禁煙したのだからもったいない、がまんしなさい、とかれを制止した。塚原は東京本社にいたころに煙草をやめたのだという。

「1週間から10日目ぐらいが1番きついんだ。もうすこしのしんぼうだよ。戸山君、せっかくかれががんばっているんだから、今夜は隣でぷかぷかふかすのはやめたらどうだい」

塚原はわらって戸山をたしなめた。

「そうですね。大阪出張で禁煙がだめになったとあとで鼓君にうらまれちゃかなわない」

戸山は和気あいあいにかえして、使いすてのライターと煙草をまとめて、

「君、これ屑カゴに捨ててくれ」

とバーテンダーにわたした。

「お、いいですね。男の友情、武士の情け。戸山さん泣かせますね」

バーテンダーはつまらないことを口ばしって、受け取った物を足元の屑カゴに投げこんだ。鼓はしかたなく戸山と塚原に礼を言う。

 アルコールと煙草、コーヒーと煙草、という2つの組み合わせは、いつもくっついていないと鼓は不安になる。ニコチンをほしがる体をなだめようとして、かれは次々に水割りのグラスを口にはこんだ。その夜は正体をうしなうほどに酔った。

 ふつか酔いの体は一転して煙草を拒絶する。翌日の午前中は鼓は煙草に手を出す気になれなかった。午後には大阪での仕事を終えてひとまず東京の本社に電話を入れた。部長の山倉が電話に出て、今日中に出張の報告を聞きたいから会社に顔を出してくれという。部長命令では仕方がない。鼓は予定よりも早めに新大阪に向かった。新幹線の中ではぐっすりと寝込んだ。おかげで煙草は気にならなかった。

 部長室での報告は1時間足らずですんだ。

「ご苦労さん。どうだね、これから飯でも食いに行かないか」

山倉が上機嫌で鼓を誘った。時刻はすでに7時を回っている。

「はい。おともします」

鼓はためらうことなく返した。列車の中で寝たおかげでふつか酔いからはすっかり立ちなおっていた。気分がいい。山倉が大阪での仕事の成果を気に入っている、と分かったころから彼はしきりに煙草をおもいだしていた。仕事がうまくはこんだあとの煙草の味にも格別なものがある。が、彼はその場はぐっとこらえて切りぬけた。

 「煙草をひかえているのかね」

 山倉がふいに聞いた。彼の行きつけの寿司屋で、食事がてらに飲んでいた最中のことである。鼓はぎょっとして、ほおばっている握りをひといきに飲みこんだ。山倉は大の煙草好きで、だからというわけではないが、社内の派閥抗争では喫煙派の平沢常務に付いている。山倉をはじめとする平沢派の人々は、禁煙に踏みきった市村常務とその一派への対抗心から、最近しきりに喫煙者と禁煙者を区別して色眼鏡で見ていると言われていた。むろん対抗者どうしをきわだたせるためのジョークだろうが、山倉の口から煙草の話がでると妙に空気が重くなった。

 「いえ。そういうわけでもないんですが。ちょっと、その、煙草を切らしちゃいまして」

握りが胸につまって苦しい。鼓はあえぎながら言った。

「君もたしかこのブランドだろう。遠慮しないですいたまえ」

山倉はカウンターにおいてある自分の煙草を彼の前に押してよこした。

「すみません。じゃ、1本いただきます。ちょうど買おうと思っていたところなんです」

鼓はすらすらと嘘をついた。山倉の煙草の1本を取り出しながら、同じ銘柄のひと箱を板前に注文した。

 しばらくぶりの一服はなんともいえない味がした。ティッシュペーパーにこぼれたインクのようにすみやかに、ニコチンが肺から体の全体に浸透していくのがわかる。アルコールといっしょだから効果のほどは一段とすばらしい。

 「最近どうも社内に禁煙者が増えているようだね。日本人は何でもすぐにアメリカのまねをしたがる。いったいいつになったら猿まねの癖をなくすのか、こまったものだ」

山倉はことさらに眉をひそめていった。彼が非難しているのは、もちろん市村常務とその取り巻きにちがいない。

 「自他ともに愛煙家を認めている君まで、煙草をやめてしまったのかとおもったよ」

山倉は満足そうにうなずいた。

「とんでもないですよ部長。こんなにうまいものはやめられません。長年つき合ってきた煙草をあっさり捨てるのは、私にはどうも嘘っぽくて理解できませんね」

鼓はつい山倉にこびてしまった。長いサラリーマン生活のあいだに習い性になってしまった保身術は、煙草と同じで中々やめられない。

「大阪でも禁煙がはやっているのかね」

山倉は煙草にこだわる。鼓は再びひやりとした。

 大阪支社には市村常務の「禁煙事件」にまつわる東京本社内の最近の動きはまだ伝わっていない。しかしこちらの派閥争いを反映して、むこうもすでに市村派と平沢派の色分けができつつあると言われていた。それを知りながら、大阪でうかつにも「禁煙中」だと人々に触れまわった自分の行為を、鼓はいまさらながら後悔した。煙草をがまんしていると、どうしても集中力がなくなって大事なことを見おとしてしまう。これもその一例である。

 鼓は今のところ社内では市村派にも平沢派にも属さない中立の立場にいる。それでも直属の上司である山倉が喫煙派によっている事実は、鼓のこれまでの禁煙作戦にも微妙な影響をおよぼしていた。つまり彼は山倉への遠慮から、会社の中では堂々と禁煙宣言をできなかったようなところがある。いや、もちろん彼がそれをためらう最大の理由は、反禁煙を標榜していた自分の過去が気になるからである。ころりと態度を変えて禁煙バンザイとさけぶのは、転向宣言をするみたいで彼はおおいに恥ずかしい。言うならばそれは、彼の人間性にかかわる問題なのである。が、人間性をまっとうするだけでは会社という組織のなかでは生きのびられない。鼓の気持や行動の中に山倉への政治がらみの遠慮がチラと顔をのぞかせるのはどうにもしかたのないことだった。

 鼓は大阪での彼のうごきが山倉に知れるときのことをおもって気が気ではなくなった。

「大阪は東京ほどアメリカの影響は強くないみたいです。ただ禁煙は世のなかの大きな流れになってしまいましたからね。若い人達のあいだにもかなり禁煙がはやっているみたいです。健康願望が強くなったんでしょうかね」

うちの社内の問題ではなく、世のなかの大勢が禁煙にむかっているのだ、と主張して鼓は自分の立場を正当化しておきたくなった。「私も健康のために少し本数を減らそうかとおもっています」

鼓はそうつけくわえた。

「いまどのくらいすっているのかね」

「1日に2箱半から3箱というところです」

鼓はすこし誇張した。禁煙にいどんだ最初のころこそ反動で逆に喫煙量が増えたりしたが、最近では1日にすう本数はぐんとすくなくなっている。

「ほう。それはりっぱなものだ。しかし、なにも無理をして本数を減らすこともないだろう。煙草は嗜好品だ。好きなものをやめたり減らしたりしたら人間は心がまずしくなる。好きなら思いきりすいたまえ。煙草をやめてしまっても肺癌になるものはなるんだ。くよくよしてもはじまらない」

山倉は饒舌になった。酔いがまわってきたらしい。鼓はなかばは彼の言葉に賛成しながら、なかばはせっかく成功しかけた禁煙が振り出しにもどったことをくやしくおもいながら、堰を切ったように次々と煙草をふかす。こうなるとかれも酔ってきた証拠である。

 「煙草、やめたいんだけどさ。むつかしいね」

新宿でテレビ映画のロケを終えたという俊行と待ちあわせて、鼓は食事がてらにかれと飲んでいた。

 鼓の禁煙作戦はマンネリ化していた。

 21ヶ条の禁煙心得の次には禁煙パイポもためしてみた。子供だましの玩具だとおも。禁煙ガムもかんでみた。会社でくちゃくちゃと口をうごかしているのはとてもがまんができずに、1時間でおわりにした。禁煙紅茶も飲んでみた。コーヒーを飲んだときのように逆に煙草をすいたくなった。紅茶という名前が良くないのだとおもった。運動をするのが良いときいて、朝の出勤前にジョギングもやってみた。走ったあとでは肺がきりきりと痛んで、たしかに煙草をすう気にはなれなかった。ところが会社に着いて仕事をはじめるころになると、胸の痛みはすっかりなくなっている。おまけに体を動かしたあとだから煙草がよけいにうまい。運動はむしろ、喫煙のすすめ、といったほうがふさわしい、とひとりつぶやいた。

 結局もっとも効果がありそうなのは、禁煙心得21ヶ条のうちの鼓が避けてとおっている2つのやり方である。大阪に出張した日の成功がそのことを雄弁にものがたっている。

 のこされた道は、高らかに禁煙宣言をして自分を追いこむことだ、と承知しながらかれはいぜんとしてためらっている。面子にこだわりすぎている。

 「本数、へらせないの?」

サンマの塩焼き、揚げだし豆腐、焼きうどん、もつ煮こみ、アサリのバター焼き、なす田楽、とろろイモ等々の皿をテーブルいっぱいにならべてぱくつきながら、俊行は上目づかいに鼓を見る。まともな食事をするよりも居酒屋でいっぱい飲むほうがいい、という俊行の希望でふたりはこの店に来た。

「ほんとのことを言うと、すぱっとやめようとおもって努力しているんだ。挫折の連続だよ。本数はかなり減ったことはへった」

「じゃ、いいんじゃないの。兄貴はいっきにやめるよりも徐々に本数をへらしていくタイプだよ」

俊行はおごってもらっていることへの礼のつもりか、鼓に兄貴としたしく呼びかけた。

「このあいだ言っていたじゃないか。白か黒か。すいつづけるかきっぱりと捨てるか。ふたつにひとつしかないって」

俊行はこんどは鼓の目を見ようとしない。顔をふせて、立てた箸の先でとトロロイモをつつきながらいじわるに答えをしぶっている。

 「――俺ね、おもうんだけど。兄貴は煙草をやめられないんじゃないかな。どうもそんな気がする」

俊行はうす笑いの浮かんだ顔を上げて、勝ちほこる調子で言った。まるで人質に死刑宣告をするサディストの誘拐犯、といったふうである。

「どうして・・・」

鼓はぎょっとした。

「だって兄貴、煙草を腹の底からいやだとおもっていないもの」

「煙草はいやだとおもっているよ。だからやめたいんじゃないか」

「無理するなって。せいぜい体のために良くないからやめようとおもっているぐらいじゃないの。たとえばヘビとおなじくらいに煙草がきらいというわけじゃないでしょう」

「俺、ヘビは好きなんだ」

「あ、そう。悪趣味だな。見るだけで気持がわるくなるものってなに?」

「そうだな――食べ物で言えばとろろイモ」

鼓は俊行の前にあるとろろイモの皿を見おろした。かれの本心である。とろろイモにかぎらず、鼓は糸を引く食べ物がすべて気に入らない。

「ほんと?」

俊行は箸の先を口にふくんでびっくりしている。

「ヘビが好きでとろろイモがきらい。ふうん。俺と正反対だ。兄貴、変態じゃないの」

言ってフライパンがころげるみたいにゲラゲラ笑った。

 鼓はくやしいが言いかえす言葉がない。煙草のひとつもやめられないようでは俊行にからかわれてもしかたがない、と変に弱気になっていた。

「アメリカ人はどうやって煙草をやめているんだ」

鼓は踏んばって、ふん、と鼻であしらうぐあいに聞いてみる。

「煙草をほんとうにきらいいになって、すぱっとやめるよ。煙草にくむべし、という考えが徹底しているんだ」

「アメリカ人がみんな煙草ぎらいというわけじゃないだろう」

「だから階級によってちがうんだよ。禁煙はインテリジェンスの問題だよ兄貴」

俊行はインテリジェンスという語をインリジェンスと抑揚をつけて発音した。

「インテリジェンス?だから黒人には喫煙者が多いということか」

「またまた‐ネトウヨ差別主義者もマッサオなこと言わないでよ・・兄貴、日本国の総理大臣になれるよ、まったく」俊行はあきれた。「インテリジェンスに黒人も白人もあるわけがないじゃないか。いま階級と言ったばかりでしょ。知識階級の階級だよ。人種は関係ないんだ」

「・・…?」

「どう言ったらわかかるのかなあ。つまり煙草は迷信みたいなものなんだ。無知な人間ほど迷信にこだわるじゃない。そのインテリジェンス」

 鼓はゆううつになった。煙草ごときで俊行に無知よばわりをされるおぼえはない。かならずやめてやる、と決意をあらたにした。

禁断の味

 決意だけが先ばしってあいかわらずからまわりをしているさなかに、部長の山倉が入院した。喉頭癌である。山倉は取りあえず一命はとりとめたものの、手術で声帯をうしなった。癌はすでに体内のどこかに移転している可能性も高いという。彼は回復してももちろん煙草はすえない。それどころか退院後に会社に復帰して仕事をつづけられるかどうかさえあやぶまれる体になってしまった。

 喉頭癌のほとんどは喫煙者にとりつく病気である。山倉がそれで倒れたというニュースは、社内の多くの喫煙者をふるえあがらせた。触発されてただちに煙草を断つ社員も出た。

 鼓もその機会に乗じて会社で高らかに禁煙宣言をした。ヘビースモーカーの部類に入るかれが、山倉の病気を身につまされて煙草を断つのはふしぎではない、とかんがえる者が社内には多かった。かれはあれほどためらった禁煙宣言を、良心の呵責を知ることなく表明することができた。

「煙草、やめるよ」

鼓は会社で禁煙宣言をした日の晩に典子にも言った。悲壮感を精一杯顔に出したつもりだった。ところが山倉とは面識のない典子は、彼の発癌のニュースを聞いても身につまされる根拠がうすい。

「あ、そう。お願いします」

とかるく受け流して澄ましている。まるで鼓が世界一周旅行に連れていってやる、とでも発言したみたいである。彼女の顔には、期待しないで待ちますわ、と言う気持がはっきりと出ていた。

 ところがその翌日の晩に鼓が帰宅すると、典子は赤飯を炊いてかれの帰りを待っていた。きのうはそっけないふうをよそおっていたが、鼓の禁煙宣言はやっぱりうれしかったらしい。俊行も呼ばれていていて、娘の香織とともにかれの帰りを待ちわびていた。ご馳走の並んだ夕食がにぎやかにはじまった。

 「義兄さん、会社の部長が喉頭癌になったから禁煙したんだって?」

俊行がニヤニヤわらった。今夜もまたなにか言いたそうである。

「うん――まあな」

鼓は少し身がまえた。

「どうして?」

「どうしてって・・…あれは煙草のみがかかる病気だからさ。命はおしい」

「人の病気を見て煙草をやめたということは、自主的に煙草がきらいきらいになった、というわけじゃないんだね。ようするに他力本願なんだ」

奥歯に物がはさまったように言って、俊行はふうんと唇をとがらせている。

 鼓はいやな気分がした。かれはきのう会社の休みを利用して、虎ノ門の病院に入院している山倉を見舞った。山倉は首のまわりを包帯でぐるぐる巻きにされて死人のようにベッドに横たわっていた。光のやどらない弱々しい目が包帯よりも無ざんな印象をあたえる。「煙草が好きなら好きなだけおもいきりすいたまえ」と寿司屋で自信たっぷりに鼓に言ったときのかれの姿はどこにもなかった。まるで20も30も年をとったように見える。それだけですめばまだしも、噂どおり癌が体のどこかに移転しているとすれば、かれはすでに死の宣告を受けているのも同然である。鼓は腹の底から煙草はおそろしいとおもった。

 彼は病院からもどった直後、煙草を断つ、と営業2課の部下たちにむかって高らかに宣言した。

 山倉の癌が身につまされたのが鼓の禁煙宣言の最大の理由であることはまちいがない。が、鼓は同時に、かれを喫煙派の仲間だと勝手にきめつけていた山倉のいないいまが、社内で禁煙宣言をする絶好のチャンスだ、と胸の片すみでかんがえていないこともなかった。他力本願という俊行の言葉は、彼がまるで山倉の病気を待ち望んでいたかのような響きがあって、鼓は屈託した。

 「他力でも自力でも煙草をやめることに変りはないだろう。やめることがかんじんだ。方法は関係ないよ」

鼓は自分に言い聞かせるように返した。

「でも、他力本願では中々やめられないよ」

俊行はまだ意地悪を言う。煙草をやめたい、と鼓が新宿で告白していらい、俊行はとことんかれをからかい続けるつもりでいるらしい。

「やめるといったらやめるさ」

「でも、煙草すいたいでしょ。顔にそう書いてある」

「すいたかないよ。本気でやめるんだから」

「無理をしないほうがいいよ義兄さん。無理をして欲望を否定するのは体に良くない。煙草がほしい、煙草がほしい、と正直に言った方が精神衛生上もいいんだ」

「俊行、いい加減にしなさい。あんたまるで煙草をすえ、すえと義兄さんにそそのかしているみたいじゃない。ふざけないで」

典子がたまりかねて弟をにらみつけた。

「そんなことないよ。義兄さんの禁煙の決意がどれほど強いのかためしているだけさ。これぐらいの誘惑に負けるようなら、どうせ長つづきなんかしない。ね、兄貴」

こんどは兄貴と言い変えて、俊行は鼓の背中をぽんとたたいた。イヒヒと笑う。

「なんとでも言うがいいさ。煙草なんかすこしもすいたいとはおもわないね」

 鼓は強がりを言った。食べながら飲んでいるビールがすこしまわってきて、本当は煙草をすいたくなっている。が、その場はたいした努力もしないでやりすごすことができた。

 禁煙宣言をしてこの方、彼は会社でも今のようにうまく禁断症状を克服してきている。自分がかかったわけでもない喉頭癌への恐怖心だけではこうはならない。強い緊張感が彼にやすやすと禁断症状を克服させているのである。その緊張感はかれが人目を意識するところから来ている。煙草を断つ、と公言した以上、なにがなんでもそれを口にしてはならない。禁をやぶれば人々になにを言われるかわかったものじゃない、と彼はおおいに気が張っている。

 禁煙3日目にもなると、社内では多くの人間が彼の決断のことを知っていた。2課の部下をはじめとする営業部の社員はもちろん、顔見知りの他の部の人々までがかれと会うたびにかならずそのことを話題にしてくれ、はげましてくれる。また社員食堂では食事をしているかれのところにわざわざやって来て「禁煙おめでとう」「ついにやりましたね」「頑張ってください」等と声をかける者もすくなくなかった。まるで大阪支社にでもいるみたいな感じである。

 人目は日ごとに多くなった。が、緊張感というものはそう長くはつづかない。禁断症状さえわすれてしまうほどぴんと張り詰めていたかれの気持は、時とともに逆にゆるんできた。それと並行してニコチンへの欲求がだんだん強くなってくる。しかしかれは煙草にはいっさい手を出さなかった。ここが以前とはちがうところだ。緊張感は弱くなったが、かわりにかれ本来の意地っぱりな心根が頭をもたげてきたのである。人目がある限り絶対に煙草はすわない、とかれは意地を張りはじめた。なんのことはない。やはり人目を気にするあまり、ぜったいにに禁煙宣言はしない、とつい3日前までかたくなになっていたときと同じである。煙草に手を出さないのはいいが、意地は張れば張るほど敵の姿も大きくなる。禁断症状はたちまち勢いを盛りかえしてかれを苦しめはじめた。

 鼓は苦しみながらも4日目5日目と無事に意地を張りとおした。

 6日目の昼食後に強烈な禁断症状がかれをおそった。頭のなかの黒い霧がタールのごとくよどんで、左手全体が麻痺したような強いしびれ感がきた。小指どころのさわぎではない。小指の存在さえわからなくなるようなけだるい、腕全体の麻痺感覚である。つづいて頭の内側に例のぎゅっという圧迫感が走る。それもやはりいつもとはちがう。まるで輪ゴムがチェーンに変ったような硬質の強い刺激である。それからの異変はふだんと同じ順序で起きた。が、ひとつひとつの症状の間合いが極端に短かった。そのためかれはすべてが同時におそったように感じた。しかもそれは、体のそこかしこに火がついたような不安感をひき起こして静まる気配がない。

 にげるように食堂を離れて、ビルの1階のロビーに出た。受付嬢の目のとどかない角度に置かれている煙草の自動販売機にまっすぐに向かう。コソ泥のようにあたりをはばかって、人が見ていないのをたしかめコインを続けざまに投入口に押し入れた。スイッチを押して煙草が出てくるまでの間がひどく長く感じられる。出てきた煙草をひったくるように取ってポケットにねじ込むやいなや、廊下のつきあたりにあるトイレをめざして小走りにそこを去った。つり銭のことはまったくかれの頭に浮かばなかった。

 大便所のひとつに入ってしっかりと鍵をかける。1本だけだ、となんども自分をはげましながら煙草の箱をあけた。火がない!とそこではじめて気づいた。大あわてでそこかしこのポケットをさぐる。さいわい背広の胸ポケットの底に赤坂のバーのマッチがのこっていた。それはかれが一昨日係長の吉川とともに取引先の接待を受けた時の店のマッチである。隣にすわった女が帰りぎわにかれのポケットに忍び入れたのを、鼓はすっかりわすれてそのままにしていたのである。

 ふるえる手で火をつけて一服すう。立ちくらむほどの衝撃があった。やりすごして再びニコチンを取りこむ。めまいが頭から全身にひろがるような奇妙な充足感がある。マリファナでもすうように唇をすぼめて、彼はさらに深々と煙を肺に送った。

 遠くの早鐘のように心臓がこきざみにふるえているとおもった。とたんに頭のなかが凛とさえて、五体が溶けてからみ合うめまいのような甘い感覚が消える。体の各部がシャキとそれぞれの位置におさまって、全身に力がみなぎった。

(ああ、生きている!)

と鼓はその時はっきりとおもった。

 それがはじまりだった。人目をしのんで煙草をすうのが鼓の習慣になった。

 煙草はいまでは以前とはくらべものにならないくらいに素敵な味がする。

 

                                       (了)    

 

 

        



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ウーB 与力の喜悦

© ザ・プランクス

 

 

屋根上に伸びる木の枝に休んでいた鳩に狙いをつけて、ウーB与力はショットガンの引き金を引いた。ウーB与力が生まれて初めて獲物を撃った瞬間だった。

鳩が、石が落ちるように速く、まっすぐに落下した。なぎ倒されたというふうだった。落ちて屋根に叩きつけられた。ドサリ!と音がしたようだ。

ウーB与力は強烈な勝利の感覚をおぼえた。相手を支配し、征服し、思いのままに翻弄した、と感じた。歓喜と充足感が全身を鷲わしづかみにしていた。

これが友人のハンター、ウーG村五が言っていた快感の正体だとウーB与力はさとった。狩猟をする人々は、獲物を狩ってその肉を食べるのが目的ではない。

畑の作物を獣害から守るためでもない。 環境のために個体数を管理するなどという崇高な目的があるからでもない。

また、ハンターは殺すことを楽しまない、ともハンターは言う。

違う。

殺すことが楽しく、しかもそれはハンター以外の人々には知られたくないもったいない心情だから、彼らはあえてそう否定するのだ。

獲物を撃ち殺すのは楽しい。ウーB与力は腹からそう感じた。

ハンターは鳥や獣を打ちたおして自らの力を誇示したいのだ。おとしめ、支配し、制圧し、いじめ、責めさいなみ、はずかしめ、横暴の限りをつくして虐殺をする。彼らにはそれが心地よいのだ。

鳩がウーB与力に撃たれてあっけなく、ドサリ、と屋根に落ちた瞬間、彼は充足し高まり、続いて射精するよりもはるかに大きな快感を覚えた。

腰抜けのウーB与力は、実は銃に対しても臆病だった。

盗賊ハンティングのために銃を持つ資格が国から与えられても、ヤクザ狩りのライセンスがヤクザ以外の全国民に発行されても、ウーB与力は銃を手に入れなかった。

操作どころか、銃に触ることさえウーB与力は恐ろしかったのだ。

かつて、ほぼ第100代目の総理大臣が威張っていたころ、日本は異形の国へと変貌を遂げた。

ほぼ第100代目の総理大臣が、超大国のカウンターパートの金魚のフンとなって撒き散らした狼藉の種が大きく育ち、国会議事堂が陰謀論者ヤアウトローやアナキストやテロリストにひんぱんに占拠される、まがまがしい国になった。

当時、超大国を牛耳っていラスボスは、民主主義の名の下に大統領になったが、一期目の終わりに負け選挙戦をクーデターでくつがえして再び大統領になり、同じ民主主義の名の下に独裁者になった。

彼は以後、日本の隣の国の独裁者や似非民主主義国の暴君やタイラント等とひんぱんに手を組んで、彼のポチである日本のほぼ第100代目の総理大臣を洗脳し、あたかもラスボスのふんけいの友でもあるかのように思いこませて、やりたい放題に日本を狼藉国へと押しやった。

そうやって日本は、ほぼ第100代目の総理大臣が秘匿していた正体と総じて同じもの、つまり独裁と差別主義と権柄づくが跋扈する国となった。

専横と危険と暴力が支配する国では、銃をはじめとするあらゆる武器を体中に巻きつけ、ぶら下げ、振り回す賊がはびこった。

賊のほとんどは、ほぼ第100代目の総理大臣の周囲の、権力機構の飼い犬だった。

普通の場合は権力機構は、権力を傘に着て支配し、ダメ押しで権力の源となる主体をしっかりと握って、なにがなんでも手離さないものだ。

だが、しかし、

ほぼ第100代目の総理大臣は、当時問題になっていた移民と難民の区別も知らないほどの無明の者で、当然のように排外差別主義者でもあった。

彼は当時、彼自身の思いつきで出稼ぎ外国人労働者を増やした。日本の人手不足を埋めた後には、こちらの都合で全員を彼ら自身の国に追い返す、というジコチューな気構えで実行した政策だった。

ほぼ第100代目の総理大臣が言いつづけた「出稼ぎ外国人労働者」とは、言うまでもなく「移民」のことである。

日本にどっと入った外国人労働者つまり移民は、程なくしてほぼ第100代目の総理大臣の差別政策に不満を抱き、次々に移民としての当たり前の権利を行使し待遇改善を要求した。

それはSNS上での不満の声になり、デモを誘発し、ストライキとなって奔流した。官憲との対峙も頻発し時には暴力的な動きにも発展した。

ほぼ第100代目の総理大臣は、彼の言う外国人出稼ぎ労働者つまり移民への執拗な差別意識から、移民に対抗する手段として日本国籍の日本人は武器を保持してもよい、と法律を変えた。

日本国籍の日本人は自在に銃器を手に入れて移民に発砲し、ヤクザを狩り、自衛のために強盗などの賊をはっちゃけ放題に襲撃しても良い、ということになった。

普通なら特権は仲間内で回して愛でて、それによって民衆を支配し抑圧するものなのに、ほぼ第100代目の総理大臣はあまりにも強い移民への差別心と、自身のその差熱心ゆえに必然的に生まれた恐怖心におののき判断力を失った。

結果、特権を全ての日本人に与えてしまった。

人々はわれ先にと武器を手に入れて、できるだけ早くその扱いに長けようとした。

ウーB与力は物騒な世の中になったので、自分も武装しようと思いつつ、銃コワガリのせいでままならずにいた。

ところが2年前、ウーB与力の家に賊が押し入った。武装した男3人がウーB与力と妻のタコヨシを縛り上げ、ウーB与力のコメカミに拳銃を突きつけて金を出せと迫った。

気丈なウーB与力の妻タコヨシが、金などない、他人の家に勝手に入るな、さっさと出て行け、などと怒鳴って賊をなじった。

すると賊の1人が銃尻でタコヨシを殴り、崩れ落ちる彼女の背中をもう1人が靴先で蹴り上げた。容赦のない打撃でタコヨシは気絶した。

ウーB与力は成すすべもなく立ちつくした。男らはガタガタ震えている与力を蔑み、嘲笑いつつコメカミに当てていた銃と鉄拳で互い違いに何度も殴った。ウーB与力もさっさと気を失った。

その体験を経てウーB与力はようやく銃の扱いを習う決心をした。

自衛が目的の銃器保持だったが、ウーB与力は再び賊に襲われた場合は、攻撃的に立ち回りたいという気分でいた。

そんな折にウーB与力は鳩を撃った。あっさりと死んだ鳥を目の当たりにして、ウーB与力の中に眠っていた彼の本性が覚醒した。本性は人間の誰もが秘とくしている獣性だった。

いやそれは正確ではない。人の目に映る獣性とは獣の食欲に過ぎない。獣は空腹を満たすためだけに他の獣を殺す。それ以外の獣の攻撃は彼が危険にさらされた時だ。

つまりそれは自衛のための暴力なのである。

だが人は楽しみや快楽や優越感から、さらに自慢やエゴを満たすためにも攻撃し、抑圧し、虐待し、殺す。

鳩を撃ち殺した瞬間に覚えたウーB与力の悦楽は、まさにその人間独特の獣性から来ていた。

しかもウーB与力は、たった一度の殺傷で、殺傷中毒になった。彼はすぐに次の虐殺を希求した。鳩でもイノシシでも鹿でも何でもいいから殺しまくりたいと思った。

賊が跋扈する日本では狩猟も盛んになっていた。

行政が熊、猪、鹿などの保護と駆除の間で揺れ動き、いかにも日本人らしくうろたえまくる間に、爆発的な勢いで野生動物が増えた。

熊が集落近くに出没するのは当たり前になり、猪が全国の市町村内の目抜き通りを群れて歩き回ることさえ珍しくなくなった。

左寄りに寄り過ぎた動物愛護家や自然愛好家たちは、ヒトが熊や猪に殺されても「動物を愛そう、共生しよう」「動物は殺さない。殺すように仕向けたヒトが殺した」などと叫んで、猟銃や拳銃をヒトに向けて振り回しぶっ放した。

争いと罵声と暴力に寛大な超大国の首魁の腰巾着だったほぼ第100代目の総理大臣と、彼に続いた彼の子分の日本の首相らは、移民と賊とヤクザ狩りに加えて狩猟も奨励し、日本中にさらに武器があふれた。

ウーB与力は鳩を撃ち、撃ち慣れると鹿や猪狩りにも出掛けた。やがて彼は、獲物は人間でも良いと彼は感じるようになった。

そうやってウーB与力の本格的な狩りの季節が始まろうとしていた。

 

 

 

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賊に立ち向かう

亡くなった義母の手伝いをしてくれたエクアドル人のガブリエラ・Cは、バスの運転手のマルコ・Rと結婚してミラノで子供3人を育てています。

そのガブリエラのエクアドルの山中の実家では、夜の帳が下りるころ父親が空に向けてショットガンを一発撃つ習慣がありました。

人里はなれた場所に多い押し込み強盗や山賊や殺人鬼などの闇の勢力に「銃で武装しているぞ。ここに来るな」と知らせるのです。

少し滑稽ですが切実でもあるその話をなぞって、筆者も先日、闇に包まれた山荘の窓から空に向けて猟銃を一発撃ちました。

ことしは山荘に賊が2度も侵入しました。いずれのケースでもドアに上下2つ付いている錠前のシリンダーを抜き取って無力化し、易々と押し入りました。

山荘には金目の物はなにもありません。ただ家屋が元修道院だった建物であるため、山小屋にしてはとても規模が大きくなっています。

山荘を見る者の中には立派に見える建物の中に、何か価値のある財物があると誤解するのでしょう。昔からしばしば賊に狙われてきました。

また山荘の一部は教会になっていて中に大理石製の祭壇があります。凶漢はそのことを知っていて、一部を剥がして持ち去るなどの計画を立てて侵入した可能性もあります。

小さな教会のさらに小さな祭壇ですが、それは建物と基礎と土台が堅牢に固められた構造の一部になっていて、建物全体を破壊でもしない限り切り離せません。

いわばローマ帝国得意の建築技術の粋が、その後の強大な教会の力を背景に研ぎ澄まされ改良されて応用されているのです。

いっぱしの盗賊ならそれぐらいのことは承知ですから、聖卓の細部を壊して持ち去ろうと企みます。だがそれも徒労です。切り離して売れるアイテムはとっくの昔に盗まれていて、もう何も残っていないのです。

2度目の侵入は破壊された錠前を新しく付け替えた数日後に起きました。錠前の壊し方がほぼ同じ手口だったので、筆者は同一人物あるいはグループの仕業ではないかと考えました。

しまし駆けつけた軍警察官は、山荘のような建物に侵入する場合は錠前のシリンダーを壊すやり方がほぼ唯一の方法だから、それだけで同一犯とは断定できない。

また同一犯なら最初の犯行で家内には目ぼしい物は置かれていないと分かったはず。再び押し入る理由が不明だ。むしろ別の犯人の可能性のほうが高い、と見立てました。

鬱蒼と茂る木々に囲まれた山荘は、夜になるとどこよりも深いと見える漆黒の闇に包まれます。

賊が侵犯して以降は、闇は大きな不安も伴ってやって来るようになりました。そこで筆者は宿泊する場合は猟銃を準備することにしたのです。

空に向かって銃撃すると恐怖心が少し薄まるような気がしました。むろんそれは気休めに過ぎません。だが銃はそこにあったほうが、無いよりは増し、と感じたこともまた確かです。

筆者は最近、拳銃の扱い方も習得しました。いうまでもなくそれの所持許可も取得しています。しまし拳銃そのものはまだ購入していません。来年夏には拳銃も準備して宿泊するつもりでいます。

そうはいうものの、自衛のためとはいえ、武器を秘匿しての山小屋滞在は少しも楽しくない、と先日の経験で分かっています。

業腹ですが、犯人が捕まったり警備状況が改善したりしない場合は、今後いっさい山荘には宿泊しない、と決める可能性も高いと思います。

イタリアは普通に危険な欧州の一国なのです。

 

 

 

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信者Mのケガの光明

 《イラスト ©ザ・プランクス》

 

 

目ざめ

 「やあ、こんにちは。ようやくすっかり目が覚めましたね」

 ベッドで目覚めたMのすぐ目の前にある男の顔は、巨顔症かと思うくらい異常に大きくて丸く、両目はカミソリで切りこんだ傷あとみたいに細くて瞳がまったく見えなかった。男がぶあつい唇を横に引きつらせて笑っているために、顔中の皮膚がずりあがって、ただでも細い目をおおい隠してしまっているのだ。そのうえ男の獅子鼻の下には汚れのようなうすい口ヒゲがこびりついていて、下あごにはカリカチュアの中国人そっくりのみじめったらしい長いヒゲまでぶらさがっていた。

 Mはぎゃ! と悲鳴をあげた。大きな双眸と高い鼻と濃い髭を持つ美顔の白人ばかりを見つづけてきたMの目には、息がかかるほど近くにぬっとつき出されている男の顔はゾンビのように映ったのだ。

 男はMの反応に気をわるくすることもなく、ニコニコと笑いつづけている。気を落ちつけて見ると、男の顔はM自身のそれと同類の日本中のどこにでもころがっている顔だった。白人の感覚でおどろいたMがどうかしているのだ。Mは一転して、あ、やさしい顔だなと思い、そうすると俺は日本にいるのだな、と安心した。

 「ドメニコ・ナガオカです。はじめまして」

男はMの鼻をなめるほど近くに寄せていた顔を上げて一歩うしろに下がり、きまじめな表情でぺこりと頭をさげた。Mの視界がひらけて、男の全身が見えた。どうひいき目に見ても医師の診察着にしか見えない白衣を着ている。Mはそのとき、男の頭のてっぺんがつるつるに禿げあがっていることにも気づいた。

 「たいへんでしたね。3日3晩ずっと眠りっぱなしでしたよ。いやあ、一時はどうなることかと思った。よかった、よかった。もう大丈夫ですからね」

自分がなぜ日本にいるのか、いったい何が起こったのか、どうしてそこに50歳がらみの白衣を着た男がいるのか、何もかもが突然でわけが分からずにいるMにはおかまいなしに、男は精いっぱい愛想をふりまいた。

 「—-ここはどこですか。あなたはいったい誰ですか」

ぽかんとして男の顔を見あげていたMはようやく聞いた。

「まあーた。またまたまたまたまた! なかなかお上手ですね。バスルームで倒れて頭を打って、気絶して、時間がたって気がついたら、そこは天国か病院に決まっているじゃないですか」

「——-」

「でも、大丈夫。安心しなさい。ここは天国ではありません。サンタマリア元修道院病院です。わたしはごらんの通り、医者です」

「病院……」

「そうです。バチカン市国経営、法王さま直属のサンタマリア元修道院病院。フィレンツエの郊外の丘の上にあります。ごらんなさい」

 医師に言われて窓外に目をやると、なるほど眼下はるかには花の聖母寺の大キューポラを景色の中心に据えた、フィレンツエの美しい街なみが薄い霞のむこうに広がっているのが見える。

 そうか、ここはまだやっぱりイタリアだったのだ——。Mは窓外の景色のようにぼんやりと霞のかかっている頭の中で思った。Mはもう10年近くもフィレンツエに住んでいる貧乏画家だ。しかも彼は気をうしなう寸前まで、フィレンツエにほど近い地中海沿岸の町でイタリア人の妻と子供と共にバカンスを過ごしていたのだ。イタリアにいるのが当たり前なのである。

 「日本じゃないのか……」

Mはなぜかすこしがっかりした。

「日本? まさか。イタリアですよ、ここは。神の国、精神の国、法王さまのおわしますイタリアです。泥のように精神のない国、日本なんかであるはずがないでしょう。気をしっかり持ってください」

「先生は日本人?」

「そうですよ。やっぱりイタリア人に見えます? いやあー、よく言われるんです。しかし正真正銘百パーセント、本家本元純粋ピュアな日本人ですよ」

「でも、日本人じゃないみたい。名前が―――」

「ドメニコのこと? ドメニコは洗礼名です。元の名は洋一。洋一長岡。今は本名もドメニコ・ナガオカでいいです」

医師はMの言葉を途中でさえぎってほがらかに言い、それからえんえんと自分と病院の関係を説明し始めた。

 それを要約すると、彼は敬けんなカトリック教徒で、20年ほど前にバチカンのサンピエトロ寺院に参詣にやって来て、そのままイタリアに住みついたのだという。はじめはローマに住んでいたのだが、10年ほど前からはフイレンツエ郊外の丘の上にあるこのサンタマリア元修道院病院につとめている。しかし仕事は無報酬無私無欲のいわばボランテイアである。彼はバチカンからの指令によってこの病院に派遣されて来ている医師なのだ。

 サンタマリア元修道院病院は、その名前からも分かる通りカトリック系の由緒ある病院である。ここには主に宗教問題で悩んでいるカトリック教徒が多くおとづれる。その大半は、異教圏に生まれながら何の因果かカトリックを信奉するようになってしまい、カトリックの理想と生まれた土地の思想風習文化情愛生活習慣義理人情など、ありとあらゆる因縁としがらみのはざ間で悩み疲れた熱心な信者である。イタリア人も多少いるが、アラブ人、ユダヤ人、アフリカ人、また日本人の信者もかなりの数がおとづれる。

 ドメニコ長岡医師は、本人が若いころに宗教問題で大いに悩んだ経験があるために、そうした人々にきわめて同情的で、すこしでも彼らの力になってやるのが同じ信者としての自分の義務だと考え、バチカンからの指令をこころよく受け入れたのだという。

 「要するにここは気ちがい病院ですか」

医師の話がひと通り終わるとMは聞いた。医師はぎょっとして細い目を思いきり見ひらいた。見ひらいても彼の目は鏡もちのひび割れくらいにしか見えなかった。

「き、気ちがい……なんてことを。それ放送禁止用語ですよ。そんなことはありません。精神の疲れと、き、気ちがいとはまったく話がことなります」

「ぼくは気ちがいじゃないですよ」

「当たり前です。自分で自分のことを気ちがい―――じゃない、え~と、クレージーとかクレージーじゃないとか主張するクレージーなクレージーがいますか。ここには誰ひとりとして気の狂った人間はいません。病院という名前がついているから誤解したのでしょうが、ここは疲れた信者の心を安めるいわば保養所。静かな環境の中でゆっくりと体をやすめて精神をリラックスさせるための場所です。変なことを考えてはいけません」

医師はきっぱりと言い、ふいにはじけるスマイルでMの目の前に再びぐあんと顔をつき出した。

「あなたの洗礼名はフランチェスコですね、Mさん」

仲間意識をあらわにして、医師は猫なで声でささやいた。

「そうだよ」

Mはぶすっとして返した。洗礼名がフランチェスコならどうだというのだ。

 Mは3年前、イタリア人の妻と結婚したのを機会にカトリックの洗礼を受けた。骨の髄までカトリックの信奉者である妻にしつこくすすめられて、彼はその儀式を受けたのだ。信仰心などすこしもなかった。妻にホれた弱みと、白人の仲間入りをしたいという虚栄心があったのだ。今では彼はそのことを後悔している。フランチエスコなどという名前で呼ばれると、目がくらむほど恥ずかしい。柄(がら)ではないと思う。医師が嬉々として自分のことを「ドメニコ」などと呼ぶのを聞くと、Mはよけいにそんな気分になる。鳥肌が立つ。図々しいと思う。Mの顔も医師の顔も、仏教か神道かアニミズムがふさわしい。信仰は顔でするものなのだ。

 「いい名前ですね。本当にいい名前です。フランチェスコというのは、あなたに良く似合っていると思いますよ」

まるでMの腹の中を見すかしたように医師はMを持ち上げておいて、

「さ、それでは何が起こったか話してみて下さい。気絶する前のでき事を一つ一つゆっくりと思い出して、わたしに話してみるのです」

と彼をうながした。

「それと洗礼名と何か関係があるのですか」

「あるかも知れないし、ないかも知れない。そのことをはっきりさせるのが病気をなおす一番の近道です」

「病気?」

「あ、いや。病気ではありません。つまり、あなたのケガのことです。ケガの原因というか、理由というか……。そういうことを知っておかなければなおるものもなおらない。ま、そういうことです」

 ケガの原因………とMはつぶやいた。そうだ、それがあって俺はここにいるのだ、と彼はふいに気づいた。すると頭の後ろがズキズキと痛んだ。Mは無意識にそこに右手をのばした。ごわごわした感触の異物が貼りついている。彼はそのときはじめて、自分の頭に包帯がぐるぐると巻きつけられていることを悟った。

「あ、気をつけて。傷口はまだふさがっていないんです」

医師があわてて両手を上げてMを制した。しかしそのときのMは、医師の言葉にはまったく耳を貸していなかった。

彼はその時けんめいに意識を集中してなにかを思い出そうとしていた。後頭部が激しく痛んだ。ケガのせいか意識がもうろうとしてなかなか考えがまとまらない。それでも彼は考えた。ケガの原因  怪我のゲンイン  怪我の原因  ケガのげんインの怪我のゲンインのケガ-……そうだ! 俺は子供を殺した……それでケガをして……気をうしなって……子供殺しが俺のケガの原因――。長い時間をかけてMはようやく結論に行きついた。

 深い悲しみがどっとMをおそった。ぽろぽろぽろぽろと彼の目から涙があふれ出て、頬をつたって落ちた。やがて彼はおいおいと声をあげて泣いた。涙で枕がぬれて、さらにシーツがぬれても彼は泣きやまなかった。

「さ。さ。ささささささささ。Mさん落ちつ着いて。泣いてばかりいてはだめです。気をしっかりもってなにもかも話してしまうことです。そうすれば救われます。救うのが神の仕事です。さ、さ、さ。さささささささささささ」

 医師にやさしくうながされて、Mはしゃっくりをしいしい話しはじめた。

未知との遭遇

「好きで生まれたわけじゃない」

Mの耳にははっきりとそう聞こえた。はじめはもちろんそら耳だと思った。草木もねむる丑三つ時。午前3時に近い海の借家のキッチンにいるのは、Mと生後70日の彼の息子だけだ。

生まれたての赤ん坊が口をきくはずはない。とすればユーレイか。しかし窓の外には柳の木も見えなければ生あたたかい風も吹かない。それでなくてもスマホ、パソコン、スーパーコンピュターのこの時代にユーレイは冗談がきつい。加えてここは、見るもの聞くもののすべてが陽気じみているのが取り柄の国イタリアだ。そのイタリアのユーレイにしては、低いが良く通る声の質にねばつくような実在感があって、あまりにも愛きょうがなさ過ぎた。

 Mは疲れていた。ビーチでの長い日光浴と慣れない水泳のおかげで、重石を腹にのみこんだような倦怠感を全身におぼえていた。それでも彼は、出産に体力を使いはたして病人のごとく弱っている妻のドリエラに代わって、赤ん坊の世話をしなければならない。

 赤子は手がかかる。おしめの交換や風呂の世話や食事のそれはいうまでもなく、寝ても起きても黙っていても、親の手助けがなければ生きていけないのが赤ん坊だ。赤子がひとりでできるのは吐いて吸う息だけなのだ。

 Mが真夜中の3時に、ドロボー猫よろしくこうしてキッチンでうろうろしているのも、子供に食事をさせてやるためだ。妻のドリエラは、体が弱りきっているために乳が一滴も出ない。なので子供はずっとミルクで育っている。

 朝の7時に始まって1日に6回、ほぼ4時間ごとに子供はミルクを要求する。真夜中の3時が1日の終わりの、あるいは始まりの食事というわけである。日課になっているから機械的に目は覚めるが、そんな時間に子供の面倒を見るのはMはいつもうんざりだった。

 Mは車輪つきの子供の箱ベッドを寝室からキッチンに移動して、寝ぼけまなこで子供のミルクを作っていた。授乳時間にベッドから抱きあげると、子供は目覚まし時計のようにけたたましく泣き出す。だから彼は、ぐっすりと寝こんでいる妻のねむりをさまたげないように、子供を毎晩ベッドごとキッチンにはこびこむのだ。

 ミルクをあたためながらMは腹の中で子供にさんざん悪態をついていた。

(こいつのおかげでせっかくのバカンスが台なしだ。俺はまだまだ子供なんかほしくなかったのだ。ちくしょう、あの晩俺が酔っぱらってさえいなければ、こいつがこの世にひり出されることもなかったのに……。一生の不覚だ。事故で生まれてきたくせに、こいつは1日に人の倍の6回も食事をしたいときた。おまけに自分では少しも体を動かす努力をしやがらない。何かというとビービー泣くだけが能だ。腹が減ったといっては泣き、ねむいといっては泣き、フンをしては泣き、目が覚めたといっては泣き、うれしいときでさえ悲鳴をあげている。ろくでもないチビめ)

そのとき、まるでMの腹の中のつぶやきにこたえるように、冒頭の文句が彼の耳に飛びこんだ。

 Mはかすかな物音も聴きのがすまいとして、ありたけの神経を両耳に集中した。哺乳瓶をあたためているガスコンロの栓をそっとひねる。ぶつぶつと不満たらしい音を立てていた熱湯が静まった。そこにふたたび声がかかった。

「いつまでもブーたれていないで、早く食わせろ」

 まちがいない。声はMの背後にある赤ん坊のベッドからもれて来ていた。

Mの腰から下をおそう虚脱感。まるで他人の下半身を引きずっているみたいだ。後頭部にピストルを突きつけられた逃亡者よろしく、Mはそろりと振りむいて箱ベッドの中をのぞき見た。

 ほっとした。なにも異常はなかった。子供はゴムのような赤い唇に、左手の中指と薬指を思いきり押しこんで、ちゅうちゅうと音を立てて吸っている。おしゃぶりは歯茎に悪いと医者に言われて、Mと妻は子供にそれをあてがわないことにした。手もちぶさたなのか、赤ん坊は生まれてまもなく2本の指を口につっこむ癖をつけた。

 Mはベッドの手すりから手をはなした。哺乳瓶を取ろうとして流し台に振りむきかけたとき、無心に中空を見ていた子供の視線が動いた。同時に瞳の色が鳶色から深みのあるグレーに変わった。

 赤ん坊の瞳の色は白人の妻の血を強く引いていて、日ごとに、極端な場合には時間ごとにくるくると変わって見える。色素の関係で光の当たる量や角度に敏感に反応するのだ。まるでビー玉のようだ。Mはふだんなら赤ん坊の瞳の色の変化をながめて楽しむところだ。子供のころに色とりどりのビー玉を光にかざして見た遊びを思い出して、ノスタルジアをかき立てられるのだ。

 その時はようすが違った。赤ん坊の瞳はなにかの意志を秘めてくるりと変化したように見えた。

 Mの予感はあたった。

「ぼくのおかげでけっこうなバカンスが過ごせるんじゃないか。じゃま者あつかいにするなよ。ミルク、あたたまったんだろう? はやく飲ませてくれ」

子供は指をくわえこんだ唇をくねらせて声を発した。Mの総髪が逆立ってピンポン玉みたいな鳥肌が全身に飛び出す。

「ドリエラ!」

Mはけたたましく妻の名を呼んだ。呼びながら顔を妻のいる寝室の方に向けた。しかし視線が子供の顔に貼りついてどうしても動かせない。だからよく見えた。赤ん坊はMの叫び声にびくんと大きく反応した。反応はしたが、すぐには泣き出さなかった。一呼吸置いて、決心をして、それからわざとらしく顔をゆがめるやいなや、こわれたサイレンのようなすさまじい泣き声を上げたのだ。

(こいつは一筋縄ではいかない怪物だ。演技をしている!)

Mは穴に吸いこまれるような恐怖感におそわれながら頭の片すみで思った。

 「どうしたの!」

声よりも速いかと見える勢いで妻の体がキッチンの中に飛びこんできた。立ちすくんでいるMを一べつする間ももどかしく、彼女は箱ベッドに突進して中をのぞきこむ。たちまち、ずる、とくずおれて、それの手すりにかけている両腕に顔をうずめた。

 「おどかさないで」妻はそのままの姿勢で顔だけをMに向けた。「赤ちゃんがやけどでもしたのかと思った――」

うらめしげに、しかし安堵感を満面にたたえて彼女は言った。

 妻はボロ布のように弱った体にむち打って、夢中で寝室から飛び出してきたにちがいなかった。彼女は出産のときに帝王切開の手術を受けて大量に血をうしなった。それは2個の大きな腫瘍を摘出する作業も兼ねていた。そのために5時間にもおよぶ大手術になってしまった。もともと貧血の体質だった妻は、その後さらに重度の貧血症におちいって、出産の後の体力の回復が遅々として進んでいない。今は育児どころか、自分の身の世話もおぼつかない、なかば寝たきりの療養中の身なのだ。

 箱ベッドに寄りかかったまま妻はしばらく息をととのえた。やがて残る力を振りしぼってゆっくりと身を起こしにかかる。Mは妻に手を貸すこともわすれて、流し台に背中を押しつけて棒のようにつっ立っていた。妻は立ちあがって箱ベッドの中で泣きわめいている赤ん坊を抱き上げた。とたんに赤ん坊はぴたりと静かになった。まるでスイッチを切るような不自然な沈黙。Mはそこでも子供の強い意志を感じた。

 「いったいぜんたいどうしたの?」

ドリエラは子供を胸に抱きしめてそれの肩ごしにMを見た。視線にトゲがある。

「……口をきいた」

「え?」

「子供が口をきいた。化け物だ」

ドリエラは真四角な卵でも見るようにMの顔を見た。やがて、ふっと表情がゆるむ。

「あきれた。夢を見たのね」

頭を小きざみに左右にふりながら、妻は芯からあきれた、とMに伝えていた。

 無力感がどっとMの全身をとらえた。妻の反応が当たり前だ。彼女が自分の目と耳でたしかめない限り、Mの話は永久に信じないだろう。動てんしてはいるが、Mにはそれくらいの判断力は残っていた。そして………子供は母親の目の前ではしゃべることがない……。Mが妻の名を呼んだときの子供の反応の仕方や、たったいま今母親に抱き上げられてぴたりと泣きやんだときの意志的な態度から推して、Mはそんな予感がした。その予感も後になってみるとやっぱり当たっていた。

誤解

 「あら、まだミルクを飲ませていないの。しょうがないわね」

妻は湯わかしの中にある哺乳瓶に気づいて言った。言いおわるときには既にそれを湯わかしから取り出している。子供を抱きかかえている左腕の手首を器用に前に差し出して、ドリエラは哺乳瓶のミルクの一滴をその上にたらして温度をたしかめた。

「ちょっとぬるいけど、大丈夫」

ドリエラはひとりごとのように言って、ミルクをなめて手首を清め、子供をあお向けに抱き変えて椅子に腰を下ろす。

 子供は泣きやむと同時にふたたび2本の指をしゃぶっていた。妻が赤ん坊の口からそれをそっと引き出してやって、代わりに哺乳瓶の乳首をあてがう。赤ん坊は、飢えたオオカミのような、というたとえも真っ青になるくらいのすごい勢いでバクリとそれに食らいついた。食らいつくと同時に両の拳を顎の下でぎゅとにぎりしめて、こん身の力をこめて乳首を吸いはじめた。

 子供は息をつく間もおしんでひたすら食べつづける。妻はその様子を至福感にくもった目で見おろして微少している。やがて、

「ゆっくり飲みましょうね。はい、ちょっと休んで」

と言いながら、子供の口から乳首を抜いて息をつかせてやる。そうしないと赤ん坊はミルクを飲みながら窒息死しかねない。

 (慣れた手つきだ)

Mは妻の一連の動きを観察しながら思った。

(どうも何かがおかしい。しっくりこないものがある。だがおかしいと言えば今夜はすべてがおかしいのだ。何もかもおかしいから、ついでに目の前に展開されている光景もおかしく見えるのだろう……)

 子供はと見ると、母親が哺乳瓶の乳首を口から抜き出したことにも気づかず、めくれた両唇をつき出して惰性でなおもちゅうちゅうとやっている。そこに妻が哺乳瓶の乳首をあてがった。赤ん坊はふたたびそれにかぶりついて必死に吸う。頃合いを見はからってドリエラが瓶を動かして息をつかせてやる。子供は哺乳瓶の乳首が口から離れても委細かまわずに、唇をつき出してちゅうちゅうとやっている。

 Mの関心は、いつの間にか妻の動静から子供のそれに移ってしまっていた。

(――こいつは何かに似ている……。そうだ、酸素不足にあえぐ生簀の鯉。こんなみじめったらしい生き物が言葉をしゃべるはずがない。もしかすると、しゃべるように見えたのは、口につっこんでいる指のすき間からもれる空気の加減だったのかも知れない………)

 父親など完全に無視してひたすら食事に固執している赤ん坊を見つめて、Mは自分に言い聞かせようとする。しかしどうしてもそれは気やすめのように思えて仕方がない。子供がしゃべるのを見た瞬間からMの中に居すわっている暗い洞のような不安が、彼の気分を決定的に支配していた。

 「赤ちゃんはあなたに何て話しかけたの。パパ? それともオトーサン?」

妻がMの方に顔を上げて、下手くそな日本語をまじえて聞いた。笑っている。Mが子供のしゃべる夢を見て寝ぼけたと信じているのだ。

「好きで生まれたんじゃない。ブーたれずに早くミルクを飲ませろ、と生意気な口をきいた」

Mはブゼンとして言った。妻の目がぱっとかがやいた。

「うわあ、すごい。そんなことパパに言ったの。ジュリオ・タカシ、えらいわねえ!」

哺乳瓶を右手で支えて、子供の口にあてがいながらドリエラは赤子の顔をのぞきこむ。Mはいらいらしたが、うまい反撃の文句は思い浮かばなかった。妻がかさにかかってからかってくる。

「何語で話したの。英語、日本語、それともイタリア語?」

「日本語だ」

Mは言って、しまった、と思った。しかし、もう遅い。妻はバネ仕かけの笑い仮面のようにけたたましく笑った。これで彼女は、Mが夢を見たという思いこみをますます強固にしてしまう。

 子供は生まれてこの方イタリア語しか耳にしていなかった。Mたち夫婦の間の会話は英語だが、子供に話しかける彼らの言葉も、もちろんまわりの人々のそれも、すべてイタリア語なのである。

 妻を含むイタリア人はともかく、なぜMが子供にイタリア語で話しかけていたのかというと、まず第一にMのイタリア語のレベルが幼児並のものだったからだ。第2はイタリア語そのものがにぎやかで愛きょうたっぷりの言語だから、子供に話しかける言葉としてはいちばん都合がいいとMは考えたのだ。したがって今の状況では、子供がまっ先に話す言葉はイタリア語以外にはありえ得ない。

「ジュリオ・タカシは将来は日本語も話せるようになるべきだ、とあなたが思いこんでいるから夢に出たのよ」

ドリエラは勝ち誇って断定した。

 妻はMを誤解している。Mは子供は将来、日本語を話すべきだ、と強制的に思ったことはない。子供は将来は日本語も必要になるだろう、と柔軟に考えているだけだ。だから子供が言葉を覚える時期になったら、日本語で話しかけて少しはそれを教えるつもりではいた。しかし教えはするが、日本語を話すのはいやだ、と子供が自主的に判断すればそれはそれでいいと思っている。いやなら日本語など覚えなくてもいいのだ。

 イタリアで育つ限り子供にとってはイタリア語が母国語であり、日本語は第2第3の外国語にすぎない。言葉は国籍だ。イタリア人がイタリア語を話すのでもなければ、日本人が日本語を話すのでもない。イタリア語を話す人間がイタリア人であり、日本語を話す人間が日本人なのだ。なぜなら言葉は人の感情も理性も表情も仕草も思想までも規定する。

 言葉が規定できないのは人の皮膚の色だけだ。したがって子供はイタリアで育ってイタリア語を第1言語にする限り、どう逆立ちしてもイタリア人だ。イタリア人ならイタリア語をうまく話すことが先決問題だから、第2第3言語の日本語などどうでもいい。

 とはいうものの、言葉が規定できない唯一のもの、つまり皮膚の色が子供は両親を白人に持つふつうのイタリア人とは違う。そしてふつうのイタリア人の中には、たいていの日本人と同じように阿呆が多い。だから、そこのところを言いがかりにして子供をいじめる者がこの先にはかならず出てくる。子供がそのとき混乱して、自分のユニークさが他人よりも劣っている、と誤解する日にそなえて日本語を習っておくのも悪くないとMは考えるのだ。

 なにも日本人のMの血が子供の中に半分流れているからそのことに誇りを持て、と途方もない言いがかりをつけようというのではない。ふつうのイタリア人とも、また日本人ともすこし皮膚の色が違う子供にとっては、日本とイタリアのうちのどちらが住み良いかというと、イタリアは天国、日本は地獄、くらいの差があることをしっかりと認識するためだ。イタリアには人種差別がある。片や日本は、人種差別の存在にさえ気づかない国民が多い、絶望的な人種差別国だ。

 日本語を知っておけば、子供はかならず日本や日本人と接する機会が多くなるから、そのことを人生の早い時期に理解することができる。したがって日本という国に対する間違った好意的な幻想を抱かなくても済むというわけだ。イタリアで多少いじめられても絶対に日本に逃げこんではならない。イタリアで踏ん張っていればかならずいいことがある。なぜかというとこの国は、日本とはまったく逆に、異なものユニークなものを至上と考える、少し頭のネジのゆるんだ人々の住む国だからである。

 事故で生まれてきた子供だとはいえ、Mは赤ん坊の将来に対して一応その程度の見通しは立ててやっていたのだ。それなのに子供はMの親心を踏みにじるような暴言をは吐く。憎たらしいことこの上もない。しかし実を言えば、M自身も彼の父親に暴言を吐きつづけて、それを肥やしにここまで成長した男だ。だから暴言の件は腹は立つが許してやってもいい。

 Mが気に食わないのは、赤ん坊がどうやら人の心を読み取る能力を持っているらしい点だ。

  「好きで生まれたわけじゃない」という文句は、「好きで生んだわけじゃない」というMの内心を察した子供が鋭く放ったジャブパンチのようだし、何も言った覚えはないのに、やはりMの腹の中を見すかして「いつまでもブーたれるな」とストレートパンチをくり出してきた。その上、赤ん坊が言ったように、子供のおかげでMがけっこうなバカンスを過ごしているのも事実なのだ。自前でバカンスを買う金などない貧乏画家の彼は、子供の誕生祝いという名目で妻の家族がプレゼントしてくれた長い海の休暇を、負い目を感じながら過ごしている最中なのである。

食わせ者

(怪物が生まれたのはいったい何が原因だ)

Mは暗闇の中であお向けにベッドに横たわって考えつづけていた。

 赤ん坊はミルクを飲み終えるとすぐに妻の腕の中で寝入った。腹がくちてくると安心してコクリコクリと船をこぎ、あわてて目覚めては哺乳瓶の乳首にぱくりとむしゃぶりつく、というしまりのない動きを何度かくり返して、ついに本気でねむりこけたのだ。

 Mは妻の腕から子供を受け取って箱ベッドに放りこみ、寝室まではこんでやった。それからドリエラがベッドに横たわるのをたしかめて、ふたたびキッチンにもどった。気を落ち着かせるために彼はそこでワインをしこたま飲んだ。その後で寝室に入って、妻の横のベッドにもぐりこんだのだが、とてもねむるどころの騒ぎではない。

 (アーリア人種のドリエラとモンゴロイドの俺の組み合わせが、子供に突然変異をもたらしたのだろうか。まさか。そんな組み合わせはいくらでもある。いちいち怪物が生まれていたら、いま頃は世界中がパニックにおちいっている……。コロナの影響―ありそうなことだ。イタリアへの影響は思ったより少なかったというが、役人の発表したことだから絶対に信用はできない。異常気象や大気汚染の付けがまわり出したのかも知れない。クスリ漬けの肉を食いすぎた可能性もある。

 あるいは――地球外生物の落とし子、という線も考えられる。地球の鳥でさえ誰かの巣に卵を産みつけて、他人に子供を育てさせるくらいだ。宇宙の果てから飛んできてドリエラの腹にちゃっかり種を植えつけて、俺たち夫婦に子供を育てさせるくらいの高等な知恵を持つ生物がいても………待て。これが一番あやしいぞ。どこかで一度聞いたような話だ。俺はあの晩したたかに酔っぱらっていて、何が起こったか良く覚えていない。俺のサッカーのひいきチームのミランが優勝したのを祝って、皆んなで明け方まで飲みまくった日だったのだ。

 ドリエラの言い分によると、完全に正体をうしなっていた俺が、めでたい日だからとかぶせるべき物をかぶせるのをいやがって、抜き身で突っ走った結果、彼女の腹がふくれてしまったのだという。俺は妻の主張を全面的に信じて今日まで来た。が、真相は闇の中だ。なにしろ俺はあの夜ドリエラを実際に抱いたのかどうかさえ覚えてはいないのだ。

 何かがおかしい。それにしても、これと同じような話をたしかに俺はどこかで聞いている。いったいどこ―)

 雷鳴に頭のてっぺんをど突かれたと思った。おどろいてベッドからはね起きた。それが子供の泣き叫ぶ声だと気づくまでにかなりの時間がかかった。Mはいつの間にかねむってしまっていたのだ。

 反射的にサイドテーブルの上の置き時計を見た。七時半を回っている。定刻の七時を過ぎてもMが起きないので、赤ん坊はミルクを要求してわめき立てることにしたらしい。Mはねむりこむ前に同じ時計が6時を示すのをたしかめていた。そうすると一時間かそこらねむったところでたたき起こされた計算になる。

 (てめえさえねむれば、人のことはどうでもいいと思っていやがる。チビエゴイストめ)

脳みそがそこら中をころげ回っているように頭が痛い。もうろうとした意識をふるい起こして、腹の中で子供をののしってからMはベッドを離れた。

 子供の箱ベッドの中をのぞき見る。赤子は歯茎だけの歯の間に赤い舌をつき出して、思いきりわめいている。寝不足の重い頭にガンガンひびく猫じみたかん高い悲鳴。子供の歯茎の奥には、穴のように暗い口腔がぽかりと開いてMを歓待していた。

 「わかった。わかった。いまミルクを好きなだけ流しこんでやるから、そのでかい口を閉じろ」

Mが言いつつ箱ベッドを押して部屋を出ようとしたとき、妻がうめき声をもらした。

「もう7時? 手伝おうかM?」

寝返りを打ってこちらに顔をむけて、つらそうな声で妻は言った。

「いいよ、ドリエラ。ぼくがすこし寝すごしたから、子供は腹を空かして泣きわめいているんだ。起こして悪かった。君はゆっくり寝ていてくれ」

Mは言い残して寝室を出た。

 妻は特に朝が弱い。以前の半分にも回復しない体力に加えて、重度の貧血症だから、朝は長い時間をかけてベッドから立ち上がれるだけのエネルギーを体内に温存しなければならないのだ。Mは7時の授乳のときも妻に気をつかって、子供が泣き出す前に箱ベッドをキッチンに移動して食事の世話をしてやる。今朝はそれがうまく行かなかったために、彼女は赤子の悲鳴におどろいて目を覚ましてしまったのだ。

 「お前の出産のためにドリエラはもうすこしで死ぬところだったんだぞ。ちょっとは気をつかって静かにしたらどうだ。この恩知らずの胃ぶくろヤロー」

キッチンに入って、粉ミルクをスプーンで哺乳瓶に入れながらMは言った。子供が日本語で口をきいて以来、Mも日本語で息子に語りかけている。子供は答えなかった。両目をきつく閉じて、口の中に顔があるかと見えるほどに大口を開けて力の限りに泣き叫ぶばかりだ。

「お前が母親の目の前ではしゃべらない腹づもりでいるのは分っているぞ。だが心配するな。ドリエラはまだ寝ている。さっきのはお前の泣き声でちょっと目をさ覚ましただけだ。今ここにやって来ることはないから安心して口をききな」

子供はやはりMの言葉には反応しない。ミルクを要求してひたすらに悲鳴を上げている。

 「ふん。そうやってビービー泣いていると、すこしはかわい気があるようにも見えるからたいしたものだ。なかなかの役者だよ。だが、ごまかされないぞ。どういう魂胆かじっくりと話を聞かせてもらおう――」

「手伝うわ、M」

背後でふいに妻の声がした。おどろいて振りむくと、ガウンの胸元を両手で押さえながらドリエラがキッチンに入って来る。

「ね、寝ていなくてもいいのかい」

Mはうろたえて箱ベッドから離れた。

「すこしは体を動かした方がいいのよ。黙って横になっているといつまでも目がさ覚めないわ。それにいつもいつもあなただけに赤ちゃんの世話をさせているのが悪くて……。疲れたでしょう」

「いや、ぼくはそんな―――」

「ミルクはできたの」

「い、いま、あたためるところだ」

Mはあわてて言って、嘘のばれた詐欺師みたいにこそこそとガスコンロの前に行く。妻に内緒で子供に悪態をついたのがまるで幼児虐待みたいに思えて、Mはつい罪悪感を覚えてしまったのだ。        

 Mは哺乳瓶を湯わかしの水の中に置いてコンロに火をつけた。妻はその間に箱ベッドから子供を抱き上げた。

 「おお、よしよし。いまミルクができますからね、ジュリオ・タカシ。はい、泣かないで。パパ、早くしてちょうだいね。ぼくはお腹がチュいた」

赤ん坊とMを交互に見やりながら話す妻の声に呼応して、子供のわめき声が尻すぼまりに小さくなった。

 (こいつめ、なんて奴だ! ドリエラがここに来ることを予知していたから、さっきはどうしても口をきこうとしなかったのだ………)

Mは赤ん坊をにらんでボーゼンと立ちつくしていた。

ビーチの異変

  キノコ雲みたいなパラソルが生い茂るビーチは、今日も海水浴客でごった返している。

 世界は自分を中心に回っているつもりのガキが、数をかぞえるさえ腹立たしい数で縦横に砂地を駈けめぐっている。

老人らが扁平な胸にこびりついた白い胸毛を見せびらかして、、細い足と巨大な尻を持つ、もはや女とは呼べない女たちを、それでも女に見立てていちゃつきながらボッチェに興じている。黒い鉄の玉を下手投げに前に放り投げるだけの、老いぼれにはもってこいの他愛のないゲームだ。

 隠すよりも見せびらかすことに熱心な若い女たちの挑発的な体が砂地にくねり、男たちの間をねり歩き、波打ちぎわを駆けまわる。海に飛びこむ。飛沫と喚声が上がる。

 ディスコミュージックががんがん鳴りひびいて、若者らがそこかしこでパーテイーをくり広げる。パンク気取りの数人の若者のグループが、一つ一つのパーテイーに飛び入りで参加してはまた離れて、愛きょうの押し売りをつづける。老夫婦がわれ関せずという顔で波打ちぎわに杖を引く。

 キャンデイー屋、パンケーキ売り、アイスクリーム屋、アクセサリー売り、ペット売り兼記念写真屋、ココナツ売り……おびただしい数の物売りが、ビーチの喧騒に拍車をかける。

 バスタオル、帽子、ビーチボール、サーフボード、浮き袋、海水パンツ、サングラス、パラソル、ビキニ、脇や股間のはみ出し毛、サッカーボール、バルーン、凧、広告……色とりどりのオブジェが中空を舞い、止まり、走り、入りみだれて動き回っている。一刻も無駄にすまい、と誰もが目をつり上げている必死のバカンス――。

 Mはミラー貼りのサングラスをかけて、寝不足つづきでチクチク痛む両眼を保護しながら、海風になぶられてうねるパラソルの下の寝椅子に横たわっている。パラソルの日陰の中心には、妻の寝椅子と乳母車がある。妻は長袖のブラウスとスカートを着て、その上にさらに薄手のバスタオルを乗せて、体を保護しながらうつらうつらしている。直射日光と強い風はドリエラの体にはまだ毒だ。

 子供の乳母車は幌付きの真っ赤なやつだ。パラソルが風にうねるたびに影が動いて、強烈な光がそれにかかって赤い化繊布の全体が燃えるようにかがやく。

 赤ん坊はその中で、例によって指をちゅうちゅうやりながら中空を見ている。なにかをじっと考えているようないないような得体の知れない眼差し。まぶしいのか、ときどき目を細める。頭を振る。少し体をずらして冬眠中の小熊みたいにもぞもぞと動く。伸びの仕方もまだ知らない赤子独特のしぐさだ。

 (まったくたいしたタマだ)Mは子供の動きを盗み見ながら内心で舌を巻く。(完璧な演技ぶりだ。どこから見ても純粋無垢な赤ん坊だぜ)

出口のまったく見えてこない迷路に踏みこんでしまったような、もどかしい気分でMは考えていた。はた目にはサングラス越しにビーチのにぎ賑わいをながめているように見えるが、彼はずっと子供の動きを観察しているのだ。気持ちは子供を無視して、以前のようにバカンスを楽しみたいのに、彼の視線は目玉にバネでも取りつけたみたいに絶えず子供の方に引き寄せられてしまう。

 そのくせ赤ん坊が正体をあらわすのは、午前3時の授乳の時だけなのだ。それ以外の時間にはMがいくらそそのかしても、子供は口をきくようなヘマは絶対にやらかさない。

 今のようにビーチにいるときは、たくさんの人の目があるからMはそれは分からないでもない。が、たとえば夜の11時と午前7時の食事時にも、かたくなに口をつぐんでいる赤ん坊の意志の強さには、Mはほとほと感心する。その時間には妻のドリエラは十中八九寝室で横になっている。しかし赤ん坊は母親の眠りが浅く、ときどき起き出してはキッチンに顔を出すことを知っていて、片時も気を許そうとはしないのだ。

 「うっ! かわいい。ね、見て見て!」

股ぐらと胸に申しわけ程度の布きれをあてがった女が、巨大な筋肉の塊にやみくもに剛毛をちりばめてみました、といった風体の連れの男の腕を引っ張って乳母車の中をのぞきこんだ。大男は気のない顔でしぶしぶ立ち止まる。丸裸になった方がまだよっぽど刺激が少ないにちがいない女の大胆な水着とはちきれそうな肉体もうれしいが、ピラミッドでも隠し入れているみたいな男の股間の高まりがMの気を引いた。ふいに敵愾心のような、あるいは嫉妬のような、わけの分らない熱いものがMの身内に湧きおこった。

 「かわいい。食べちゃいたいくらい。あーっ、笑った、笑った。まだ歯も生えていないのよ。ねえ、見て。見てったら!」

女は乳母車の中の子供と男の顔を交互に見やって、ひとりで興奮している。男はうろたえ、困惑しながらも、女にせかされて仕方なく乳母車の中を一べつした。

「ね、かわいいでしょう」

女がすかさず言う。声の調子は明らかな断定的脅迫型同意催促形だ。

「うん……まあ…」

しどろもどろにつぶやく男。

 赤ん坊にこだわって終始重い気分でいたMは、そのことを忘れて(バ~カ)と男の顔にほくそ笑んだ。

 ピラミッドの魅力で女を征服しているかと見えた男は、実のところは女にがんじがらめに束縛されているだけのただの甲斐性なしのようだ。男は毎晩、下半身の爆発の後で「結婚したい」とか「あたしたちの子供きっとかわいいわよ」とか「体はこんなにちがっているのに、あたしたちどうして心はぴたりと一つなのかしら」などと女にいちいち因縁をつけられて、身動きがとれなくなっているにちがいない。

 男のピラミッドに覚えたMの劣等感がすーっと晴れていく。

(まだ若いのに……キンニクバカ。早く子供を作れ。子供を作って地獄を知れ。そうなったら、お前のピラミッドも俺の粗末な一物も同じ穴のムジナだ――)

脈らくのない考えがMの頭に浮かんで、なぜかそれが楽しい。

 彼はこみ上げてくる笑いをけんめいにこらえた。こらえたすき間から、ふふ、ぐふふふ、と笑いの滓がこぼれ出た。こぼれ出た笑いがさらに笑いをさそって、ついに止まらなくなった。

 「M、だいじょうぶ?」

ドリエラの声で我にかえった。すぐに顔を引きしめる。

「ん? なに?」

Mはとぼけた。

「……びっくりした。急に泣き出すんだもの」

ぽかんとしているカップルに、妻は照れ笑いを浮かべて弁解して、うまくごまかした。

絶対美形

 Mたち一家のパラソルには、カップルが去った後にも次々に見物客がやってくる。いつものことだった。見てくれの悪い東洋人のMと、北欧人的に金髪碧眼の容姿を持つ妻の組み合わせは、ただでも人の気を引く。そこに子供の乳母車が強いアクセントを加えて、彼らの姿はいよいよ人々の好奇心をそそるのだ。

 物見高い連中が乳母車の中の子供に期待しているのは、Mのひな型かそれに近い何かだ。白人の妻のひな型はそこら中にいくらでもころがっている。彼らは見飽きている。Mを鋳型にして考える赤ん坊は、彼らにとっては得体の知れない代物だ。誰もが焼けつくような興味を覚える。しかし乳母車の中をのぞきこむ連中は、みごとに期待を裏切られる。赤ん坊はMには少しも似ていない。かと言って妻の分身そのままの形もしていない。

 実は子供は、見る者がその姿を一べつしてギョッとして身を引き、ふたたび本腰を入れて今度はじっくりと観察をしないではいられない、息をのむような美しい姿態をした生き物なのだ。

 赤ん坊の頭は、帝王切開手術で難なく母親の体外に取り出された子供に特有の、ゆがみのない完璧な丸みを帯びている。そこにはほのかにウエーブのかかったうすい栗色の髪の毛が、ふさふさと茂って両耳に触れるか触れないかのあたりで流れるように安んでいる。子供ははじめから髪の毛が生えそろった姿で生まれたのだ。

 額は成長したときの聡明さが今から分かる広いなめらかな形。眉毛は先細の刷毛で軽くひと息に引いたような2本の曲線で、色は金髪のうぶ毛のようにきわめてうすい。

 その下にはMと妻というよりも、東洋人と西洋人のそれぞれの美を集約した形の、圧巻の双眸がある。二重まぶたの大きな目は、吊り目になる手前のほど良い角度で東洋的に切れ上がって、中には色のうすい神秘的な瞳が収まっている。光をたたえているようにも、また光を反射しているようにも見える白人の赤子独特のうすい色の目玉は、無垢な魂の映し絵だ。

 鼻は額と同じく、将来のノーブルなたたずまいが今から明らかな、大きすぎもしない小さすぎもしない盛り上がりを見せ、あるか無きかのすき間をあけて2枚重ねに寄りそっている唇は、小さな桜貝に熱い血をすこし注入したようにやわらかくふくらんでいる。

 容貌だけを見れば、赤ん坊はたしかに世界中の幸運をかき集めてひとりじめにしているような、なんとも愛くるしい姿形をしている。しかし、子供をはじめて見る人間が一度ギョッとして立ちすくみ、自分の身の上に一瞬思いをめぐらせるみたいな変な眼差しをして、それから呆けた柔和な顔つきになって今度はしげしげとそれをながめまわすのは、どうも圧倒的な美形のせいだけではないような気がMはする。

 そのくせ、それじゃ乳母車の中にころがっているのがMに良く似た、言うのも業腹だが、つまりぶさいくなチビだとした場合、見物人がはたしてそれを恍惚として見つめるかと言えば、それはまずあり得ないような気がするから、子供が人の気を引きつけるのはやっぱり見てくれがいいせいだろう、とMは結論づけざるを得ない。

対決

 (なにがこの子はエンジェルよ、だ。どいつもこいつも赤ん坊の正体を知らないから、勝手なことばかりぬかしやがって。他人はともかく、母親のドリエラまで“ジュリオ・タカシは私のちっちゃな天使よ宝物よ星の王子様よ”と公言してはばからないのだから、あきれてものも言えない。しかし―――考えてみれば、これは連中がバカだというよりも、赤ん坊がそれだけ人心をたぶらかす手練手管にたけている、ということの証明なのだからおそろしい。化け物は化け物らしい顔をしていてくれれば、あきらめもつくし少しはかわい気もあるが、化け物とは正反対の顔をした化け物というのは、化け物の中でも一番しまつの悪い化け物だからまったく腹の立つ化け物だ)

 Mはいつの間にかキッチンで子供の食事の準備をしながら、腹の中でぶつくさ言っていた。

 キッチンには3基の蛍光灯が派手にともって、昼間のような明るさだ。子供に食事をさせる時には、Mは以前はガスコンロの上に備えつけられた小さな白熱灯だけをともしていた。箱ベッドの中で子供が目覚めた時にまぶし過ぎないように、と気をつかったのだ。今はそんなこと知るもんか、とキッチンに入ると同時にがんがん明りをつけて意地悪をしてやる。

 子供はさっきから強い光にあてられて顔をしかめ、薄目を開けたり閉じたりして苦労していたが、ふいに左手の中指と薬指をそろえてぎゅと鼻に押しつけた。寝ぼけて口のつもりで鼻面に指を突っこんでいるのだ。

(ザマミロ)

Mは、ぐふふ、と含み笑いをして、粉ミルクをスプーンですくって哺乳瓶に入れる作業をはじめた。

 「化け物、化け物って、さっきからうるさいな。バカの一つ覚えなんだよ」

とたんにMの背後でパンツがずり落ちるくらいに不気味で楽しい子供の声がした。

 それ、来た、とMは体を固くして身構える。しかし、子供がはじめて口をきいた夜のようにあわてて振りむいたりはしなかった。今では彼はこの奇怪な生き物と正面切って対決する腹ができているのだ。

 Mは流し台の前で悠然とミルクを作りつづけながら、顔だけをゆっくりと箱ベッドに向けて、両目におもいきり力をこめてじろりと子供にすごんでやった。

 子供はうまく口の在りかをさぐり当てて、二本の指を押しこんでちゅうちゅうとやっている。薄目を開けて視線を中空に投げて、たったいま口をきいたことなんかそ知らぬ顔だ。

 子供のそらぞらしい態度がMの癇をわしづかみにしてグリグリとこねまわした。敵意があるならあるで堂々とこっちの顔をにらみつけてぶつかってこい、と思わず意見をしかけたとき子供がふたたび言った。

「言っておくけど、あんたに化け物よ呼ばわりをされる筋合いはないんだ。ぼくは人よりも早く言葉を覚えてしまっただけさ」

「それが化け物だというんだ、トッツアンボーヤ」Mはぴしゃりと言ってやる。「それとついでだから教えてやるが、人にものを言うときは、まっすぐに相手の顔を見てBGM抜きでやるものだということを覚えておけ」

子供はしゃべるときも2本の指を後生大事に口にくわえこんでいるので、舌が絶えず指にからんで、会話の途中にぴちゃぴちゃとリズミカルな雑音が入る。それでも奇妙なことにしゃべる言葉は少しも舌足らずにならないで良く分る。しかしどうしても態度が横柄に見えてMは気に食わないのだ。

 子供の赤い唇がぐにゅとゆがんだ。

「何がおかしい」

Mはきっと目をむいた。

「人のことをとやかく言う前に自分の態度をあらためてくれ」

「なんだと」

「ぼくを化け物よ呼ばわりするなということさ。歩き出すのが人より早い者もいれば、歯が人より早く生える者もいる。ということは、人よりも早く言葉をしゃべる赤ん坊がいてもおかしくないと思わないかい」

「思わないね。お前は生まれてまだ3ヶ月にもならないドチビだ」

「無知な男だな。歯がきれいに生えそろって生まれ出る赤ん坊や、生まれて1月もたたないうちに歩き出す子供のことを知らないらしい」

 Mはぎょっとした。そんな話は彼はたしかに知らない。しかし、それを言って自分で自分の無知を認めるのはシャクだからごまかした。

「ふん。そんなことは百も承知だ。だがそういうのは単なる肉体の発育度の問題だ。肉体なら犬も猫もウサギも持っている。言葉はそれとはちがう。もっと複雑な要素がからんでいるのだ。それともお前のような狂い咲きの赤ん坊がほかにもいるというのか」

 Mは子供がイエスと答えてくれるのをひそかに期待した。他にもこいつと同じ化け物がいるなら、すこしは気が楽だと思ったのだ。

「知らないな。あまり聞いたことがない。できのいい人間というのは数が少ないと相場が決まっているだろう」子供はしゃあしゃあと言った。「あんた、人の親ならぼくのような子供を持ったことをよろこぶべきだよ」

「ほう。そんなに親のよろこぶ顔が見たいのなら、ドリエラの目の前でもしゃべったらどうだ。え? なぜ母親の目の前ではしゃべらないんだ。え?えええええええ。心にやましい物があるからだろう。この極悪人」

Mは鬼の首でも取ったように言いつのった。

「おふくろが卒倒するのを見たくないからだよ」

すずしい声で子供は答えた。

 Mの頭にカッと血がのぼった。

「この ―― 寸足らずの狂い咲きのビンボーガキめ。 俺は卒倒してもいいというのか!」

「分らないかな。あんたを見こんで口をきいてみたんだ。男親なら冷静に現実を見てくれると思ったからさ」

「お前のような子供の父親になって、我ながら情けないという現実なら良く見えている」

「……どうもあんたは本当の父親じゃないような気がしてきた」

「なんだと――お前の父親はほかにいるってのか」

「さあね。本当の父親なら、子供にもっとやさしいんじゃないかと思っただけさ」

 子供はいつの間にか顔をこちらに向けてMを見上げていた。瞳の色がうすい灰色になっている。水晶のように澄んだふしぎな色合いだ。暗い感じではない。しかし意志の読み取れないその双眸が、Mには逆に子供の深い悪意のあらわれのように見えた。

「はっきりしろ。お前、なにかとんでもない秘密をにぎっているんじゃないのか。ドリエラのやつ浮気をしたのか」

 Mは哺乳瓶を振りまわして叫んだ。振りまわすたびに中の粉ミルクが水にとけて、うまい具合に赤ん坊の食事が仕上がっていく。

 「あんまり興奮するなよ。ぼくにそんなことが分るわけがない。おふくろだけだよ、そんなことを100パーセント知っているのは」

「お前が人の心を見抜けることは先刻承知だ。隠さないでさっさと白状しろ」

「ちょっと待ってくれよ、おやじ。変な言いがかりをつけないでくれ。どうしてぼくが人の心を見抜けるんだ。なんのことかさっぱり分らない」

「とぼけるな。それじゃ聞くが、お前がいつも俺の腹の中の考えに正確に反応するのはなぜだ」

「考えていることをぶつぶつしゃべれば、耳があるから聞こえるさ」

「この悪たれ。俺がいつぶつぶつ言った」

「やれやれ。この間おふくろが夢を見たのかとあんたに言ったのは、どうやらそんなに的はずれでもなかったみたいだな。あんたあの夜、ミルクを作りながらさんざんぼくの悪口を言っていたんだぜ。ついさっきもそうだ。人のことを化け物の中でも一番しまつの悪い化け物だとこきお下ろしたのは、いったいどこの誰だと思っているんだ。あんた、ほんとに覚えていないのかい。モーロクしたんじゃないのか」

「このガキ、よくもそんな出まかせをしゃあしゃあと――」

 Mは逆上してあやうく子供に哺乳瓶を投げつけそうになった。腹の中で赤ん坊に罵詈雑言をあびせたのは否定しない。しかしそれを声に出してぶつくさ言った覚えはない。子供が人の心の内を読み取る暗い能力を隠ぺいするために、父親に濡れ衣を着せようとするのがMは許せなかった。

 「ちょっと待って。タンマ!」子供に制止されてMは哺乳瓶を振り上げている手をお下ろした。「あの夜と今日だけの話じゃないよ、おやじ。あんたのべつ幕なしにぶつぶつ言ってる。ほんとに記憶にないのなら、一度医者に見てもらった方がいいんじゃないか」

「こ――この……殺してやる」

Mは怒りのあまり胸がふさがって、ほとんどうめくような声になった。

 子供が明らかにうろたえた。Mの怒りが通りいっぺんのものではないことにようやく気づいたらしい。

「ぼくを殺すのは簡単だけど、殺した事実を隠すの不可能だよ、おやじ」

精いっぱいクールに言ったつもりらしいが、赤ん坊の声はひきつってふるえていた。

「どうだか」子供が暴力の前には無力な存在であることに今さらのように気づいて、Mは勝ち誇るように言った。「首をきゅとしめてトイレに流してやる。あとかたもなく消えるぜ」

目を細めて両手でくいと首をひねるマネ真似をした。

「そんなことをしたら、大声で叫んでやる」

赤ん坊の口からはじめて子供らしいかん高い声がもれた。

 「大志をいだけ。大いに叫べ。ヒトゴロシ! ってな。お前は小ざかしく見えても、しょせんは芋虫みたいに無力なガキだから知らないだろうが、大人は聞いたことがない音は空耳だと思って無視するんだ。ドリエラはお前の声には注意をはらわない」

「あんたと2人だけになったら、ぼくは眠らないでずっと見張っている」

「だまれ! 一日に25時間もいびきをかかなきゃ体が持たないヨタローのくせに」

 子供は黙った。Mが哺乳瓶の乳首を子供の口にぐいと押しこんだのだ。ふいをつかれて一瞬ためらった子供は、それでも食べ物に我を忘れて乳首にむしゃぶりつく。一気呵成に食いはじめた。が、たちまちせきこんでごぼごぼとミルクを吐き出す。あお向けに寝ている子供の口にMが瓶を逆さまに押し立てたために、細い喉には大量すぎるミルクがほとばしったのだ。

 Mはあわてて哺乳瓶を子供から離した。子供は目を白黒させて、ヒッと一つしゃっくりをした。それを合図にヒッヒッヒッヒッヒッとしゃっくりのオンパレードがはじまる。

 「チッ」

Mは舌打ちをした。急いで冷蔵庫からレモンの一切れをとりだして、コーヒースプーンに汁をしぼり出す。それを片手に箱ベッドの底から子供をひょいと抱き上げて、うむを言わさず口の中にレモンの汁を流しこんだ。

 子供は、ついに気が違った、としか思えない勢いで盛大に顔をしかめた。酸い味といっしょにたっぷりとショックを味わったのだ。おかげでしゃっくりがぴたりと止まった。

 「手のかかるガキめ」

Mは吐き捨てるように言って、あらためて子供を抱きかかえて椅子に腰を下ろし、膝に乗せて左腕で首を支える。いまいましいがほかに仕様がない。それが子供のいつもの食事のスタイルなのだ。哺乳瓶の先を今度はすこし横倒しにして、Mは子供の口にあてがった。つい先刻の騒ぎもけろりと忘れて、赤ん坊は大口を開けて乳首に食らいつこうとした。Mは腹立ちまぎれに瓶をさっと口から離してフェイントをかけてやる。そうやって3度ばかり肩すかしを食わせてもて遊んでから、Mはようやく赤ん坊の口に乳首を含ませた。

 子供は例によって乳首にむしゃぶりついて、わき目も振らずにがつがつ食う。赤ん坊にとっては食事はいつも大仕事だ。大人とちがって次の食事があることなど知らないから、そのときどきの食べ物を思いきりかきこむ。食事は子供にとっては1回限りの命をかけた大仕事なのだ。恥も外聞も見栄も義理も喜びもない。一心不乱に食べまくって体力を完全に使いはたす。そして眠る。眠るのは次の食事に備えてひたすら体力を養うためだ。

 赤ん坊はそうやって今夜もぷつりと静かになった。

「おい。こら。起きろ。このヤロー。ジュリオ・タカシ。まだ話しは終わっていないぞ。こら。ちくしょう……、また逃げられてしまった」

Mは仕方なく子供の頭を肩に置いて後ろむきに抱きかかえて、背中をさすりながらキッチンの中をしばらく歩きまわった。げっぷをさせるためだ。そうしないと赤ん坊は後で腹痛を起こして泣き叫ぶ。ミルクといっしょに飲みこんだ空気が腹の中にたまるせいだ。

 子供は徹夜あけの工員みたいに眠りこけながら、それでも父親をバカにして、げぷ、と派手な寝ごとを言った。

独白

 「毎晩そんなことがつづいて、ついに疲れきったんだと思います。それで自分でも何がなにやらわけが分らなくなって、ある日子供を殺してしまおうと……」

Mは神妙な口調で言った。ドメニコ長岡医師は、うんうんうんううううんん、と深くうなづき感激しながらいつものようにMの話を聞いている。

 長岡医師には人を安心させるふしぎな魅力がある。ゾンビのようだとMがはじめおどろいたぶさいくな顔が、今ではMのアイドルになっていて、彼は寝ても覚めても頭がボーとしていても、長岡医師の顔がなつかしい。長岡医師の治療哲学が、人の心の奥の奥まで見とおして病巣をさぐりあて、その病巣もいっしょに病人をやさしく包容して救ってやろうというものであることが、わかっても分からなくなるMにもわかるのだ。

 ふつうの医者なら病巣をさぐりあてた時点で、焼きゴテやらハサミやらトンカチやら笑顔やらを使って、病人をそっちのけで病巣だけをぶんなぐってやろうとやっきになるものだ。病巣も病人の一部だからなぐられたら痛いという真理は、女王陛下の直参スパイよろしく病巣殺しのライセンスを持っているつもりの彼らにとっては、なぐるのはどうせ他人の病巣だから痛くない、というありあまる真実の思想訓練が鉄壁になされていることもあって、すこしも痛くないのだ、とMは長岡医師を見ていて思ったりしているように感じることがある。

 治療哲学といっても長岡医師のやり方は、毎日決まった時間にMの病室にやって来て、よもやま話しふうにMと会話をするだけのものだ。薬も与えないし精神分析のテストをすることもない。

 Mと医師はその日の気分によって、Mが寝起きする部屋であれこれ話しをすることもあれば、テレビのある娯楽室のソファにのんびりと腰かけて話しをすることもある。また今のように、花と緑と彫刻にかこまれた病院の広大な敷地の中を散歩するついでに、そこかしこのベンチにすわって小鳥のさえずりに耳をかたむけながら会話をすることもある。

 「Mさん、あなたは赤ちゃんを殺してなんかいませんよ」長岡医師はこれまで何度もMに言ってきかせたことをまた口にした。「赤ちゃんを風呂に入れてやっただけなんです」

「先生がぼくをかばってそんなふうに言ってくれるのはありがたいと思っています。でもぼくはたしかに子供に殺意を持っていて、実際に子供の首をしめて、死体をトイレに流したんです。きのうのことのようにはっきりと覚えています」

 医師は微笑した。いつものように人の心をなごませる愛に満ちた笑顔だ。彼のこの顔を見ると、Mはなにもかもこの人にまかせておけばだいじょうぶ。すべてを包みかくさずに話して楽になってしまおう、という気分になるからふしぎだ。

「あなたの病名は“チョー重症育児ノイローゼ”です。赤ちゃんの世話に加えて、奥さんと家事のめんどうまで見なければならなかったためにすこし疲れて、それでだんだんふつうとはちがう精神状態になっていったのです。現実と非現実が混乱して見えるのはそれが原因です。

 あなたは赤ちゃんを傷つけもしなければ、もちろん殺しもしなかった。大便器の中にすわらせて体を洗ってやっただけなんです。そこは風呂としてはたしかに変な場所です。しかし洗面台にお湯を入れて赤ちゃんの体を洗う人はいくらでもいます。この国の洗面台は日本のものとはちがってデカイから、赤ちゃんの湯船としてはちょうどいい具合なんですね。異常な状況下にあったあなたが、すぐ近くに並ぶようにそなえ付けられていた大便器と洗面台をまちがえても、そんなにおどろくべきことじゃあない。わたしもやるかもしれない。いやあ、きっとやるなわたしも。うまいところに目をつけたものですよ、あなたは。まいった、まいった。まいっちゃったな、じっさい――。

 そういうわけだから、全てわすれなさいね。赤ちゃんにつらくあたったという自責の念があなたの中には非常に強いために、どうしてもそう思えてしまうんです。あなたは男でありながらじゅうぶんに良く子供の面倒を見ました。しかも病気の奥さんをかかえて、家事のいっさいを切り盛りしながらそれをやったのだから、えらいものです。うん、あなたはえらい。えらいものだよ、あなたは。感心しちゃうな、わたしは」

 Mは医師にそう言われると、なんとなくそんな気がしないでもない。が、実のところはよくわからない。

 彼はたしかに赤ん坊と夜な夜な言い争いをして、しまいには赤ん坊の首をくいとしめて、ぐったりとなったそれを大便器に押しこんでジャーッと派手に水を流したと思うのだ。赤ん坊は小なりとは言え、そこに流すブツとしてはさすがに巨大だったから、なかなかひといきには吸いこまれず、Mは2度3度4度と出水レバーを引きつづけた。そう

しているところに、物音に気づいて目をさました妻がバスルームにやって来て、彼の完全犯罪は失敗に終った………。

 それらのすべてがMの妄想だと医師は力説するのだ。

「妻はバスルームにいるぼくを見て、ギャーッとすごい悲鳴をあげたんだよ、先生。あれは殺人現場を見た人間の絶叫です」

「赤ちゃんが夜中の3時に大便器の中で水浴びをしているのを見れば、奥さんだけではなくカバもツチノコも悲鳴をあげます」

「……でも、妻はすごい形相でぼくを突きとばした。それでぼくはぶっ倒れてタイルに頭をぎゃんとぶつけて……気がついたらここにいたんです」

「奥さんは赤ちゃんを便器から早く救いあげようとして、はずみであなたを突きとばしたんです。でも彼女をうらんではいけませんよ。おかげであなたはすこし正気に返ったんですから」

 なるほど、とMは納得する。納得した先から、どうも変だとまた思う。そんなにも現実感のあるはっきりした記憶が妄想夢想のたぐいなら、今こうして医師と話しをしているのも妄想じゃなかろうかと疑心暗鬼を生ずるのだ。

 だけど医師の診断によると、今のMは夢とうつつの区別がつけられなくなっていた気絶前の危険な精神状態を脱して、タイルに頭をぶつけた後遺症でまだもうろうとしてはいるものの、かなり正常に近い容態になっているという。

 (第三者のしかも専門家の医師がそういうのだからたぶんまちがいない。だから今こうしているのは、嘘いつわりのない真っ当至極本家本元山本山の輝かしい現実なのだ。したがってこの現実とまったく同じように現実感のあるあれらのでき事が、妄想夢想のたぐいだったということはあり得ないように見えて現実にあるわけだから、あれらの現実は非現実だったと結論づけざるを得ず、そのあたりのアウンの呼吸をまだしつこくこの現実とあの現実と分けて比較検討している自分というのは、現実中の現実であるこの現実の一部でありながら且つ現実には現実でないあの現実の一部でもあると考えている自分でもあるということになり、それは第三者の医師の指摘によれば現実としておかしい。だから現実問題として、自分が変か医師が変かの二つに一つ、二つに二つ、あるいは二つ三つ四つのうちのどちらでもないということになる)

「―――そうでしょう、先生」

Mは頭に浮かぶままのことを医師に話して同意を求めた。

 おだやかな笑みを片ときも絶やさずに、しんぼう強くMの話しを聞いていた長岡医師は答えた。

「そういうふうに考えてもいいが、考えすぎてはいけません。今あなたはトンネルを出かかっているところです。トンネルの中の暗闇に目が慣れきっているために、外のまぶしい光が目に痛いばかりではなく、内側も外側もはっきりとは見えなくなっている。しかしそのまま歩きつづければかならず外に出ます。だからあまりあれこれと気をまわさないでのんびり構えることです。あとはもう時間の問題だけですから。さ、いつものようにあなたが気絶する前のことを一つ一つゆっくりと思い出して、わたしに話してみてください」

「あれ? だって先生。いま考えすぎるなと言ったばかりだよ」

「ワッハハハハ。そうだったね。そういうふうに明るく行こうじゃない」医師は子どもに1本取られた父親のように笑った。「いいですかMさん。思い出すことと考えることはちがいます。あなたは思い出して、思い出した通りをわたしに話してくれればいいのです。思い出したことに批判を加えたり、味付けをしたり、人に知られるのはいやだからここはちょっとゴマカシちゃえ、とかそういうズルをしちゃいけません。わたしが考えすぎるなと言ったのはそういうことです」

「わかりました。はい。いいですよ」

 Mは言ったがあまり気のりはしなかった。なぜなら彼はもう何度も同じことを医師に話して聞かせているからだ。

 長岡医師はそのたびに、すこしもMをばかにしないで真剣そのもの且つほとんどうっとりとした愛情あふれる顔つきでMの話を聞いている。Mの話をたくさん聞いて、それを通してなんとか彼の病気の総元締めに行きついて、今後の治療法の目安にしようとしているな、ということは一瞬わかってわからなくなるMだが、医師は適切なところでうんうんと相づちを打ったり、話の腰を折らないように気をつけながらツボにはまった質問をしたりする。だから話す側にとっては非常に話し甲斐のある聞き手であることはまちがいない。しかしいくらMがタイルに頭を派手にぶつけたせいで、ノイローゼ症状が進んでノーミソがでんぐり返ってしまっている病人だとしても、自覚症状がある分すこしは正常でもあるのかも知れない、と感じている程度のビョーニンだと本人は本人の頭の中で思っているのだから、やはり一応はマンネリズムを退屈だなアと思うこともあるのだ。

 Mはそれでも話しはじめた。ところが赤ん坊がはじめて口をきいて、腰がぬけるほどタマゲたので妻のドリエラの名を呼んだら、彼女が火事場の馬鹿力で、病身にムチ打ってキッチンの中に飛び込んできたというところまで話したとき、ふいに妻と子供はどうしたのだろう、というなつかしさと悲しさの入り混じった気分におそわれて、涙がぽろぽろあふれ出てどうにもならなくなった。

 「……妻と子供は今どうしているんですか、先生。妻はどうしてここをたずねてこないんですか。先生の言うとおり子供は無事でいるなら、妻はぼくを許してくれてもいいいんじゃないの」

「大丈夫。大丈夫ですよ、Mさん。コーフンしてはいけません。あなたはたしかにトンネルを抜けつつあるが、まだ完全には抜けきっていない。だから奥さんはたずねてこないのです。ここには顔を見せていないが、もちろん奥さんはあなたを許してくれていますよ。大丈夫です」

出口

 「そういう気やすめはやめてくれ」

Mはふいに医師が憎らしくなった。

「人のことを気ちがいあつかいにして、気ちがいに逆らうのはまずいと思っていつもうまいことを言っているのは分かっているかも知れないぞ。ああ、俺は気ちがいかもよ。しかし、自分があんたに気ちがいだと思われていることは、はっきり言って自分の頭の中ではひしひしと感じているらしいと、俺は思ったことを否定もしなければ肯定もしない。その板ばさみの痛みを他人よりはかなり理解して、痛みを分ち合えれば理解はさらに深くなっていくだろうと、日々努力を惜しまない俺のような人間をあんたがどう思うか、そんなことはあんた自身で考えて欲しいもんだ。

 大丈夫、大丈夫、奥さんはあなたを許してくれていますよ、なアんて良く言うよ。許しているなら妻はどうしてここにたずねてこないんだ。え? えええええええええええええ? 許すのは俺か妻か、そんなことはあんたも妻も知らないんだ。いいかげんなことを言うな。このカッパハゲ!

 先生だって気ちがいかも知れないと誰それやこの彼女が言わなくても、自分が気ちがいか気ちがいではない人間のどちらかと人に聞いたとき、たぶん気ちがいの部類と断定されるような日常性の端っこのあるか無きかの足場の世界で生きている人間が、あたりを比較検討右顧左眄してながめまわすとき、小説よりも奇なる事実と出来事は森羅万象森森としてもなお波風が立つ場合もあることだし、人間いったい誰が気ちがいで誰が気ちがいでないかを当人の気持にかかわりなく決めつけるのは、神ではないから怖いという気持が気持の中でせめぎ合って、あれこれ誰それをあの気ちがいその気ちがいではないと分類するのは、結局人の気持が許さない。だからやっぱり神だけが人の気持を判断できると結論付けるしかないのだ。違いますか?」

 「ピン・ポーン。おみごと。まさにその通り。ここまでしつこくあなたに言いつづけてきた甲斐があったみたい。Mさん、やはりあなたはトンネルを抜けつつあります。神を忘れてはなりません。神こそ命。神こそ全能。神こそ正常の泉。神ある限りあなたはたとえ狂っていてもクレージーじゃない。 なぜなら神の前ではあなたもわたしもトランプもプーチンもシューキンペーも、皆同じ羊だからです。もうすぐです。もうすぐあなたはトンネルを抜けます。トンネルを抜けるとそこは神の国です。雪国なんかじゃありません。トンネルを抜けると雪国だなんて、そんな貧しい救われない、お金も家も財産も定収入も心の平安もない文学なんかやっちゃいけません。トンネルの向こうにはさんさんと光のあふれる愛と希望と酒池肉林の救済の地があるんだ」

長岡医師はガッツポーズで言葉をしめくくった。

 Mの頭の中で歯車がカチとかみ合う音がした。何かが動き出す気配がする。彼は考えているような気分で、先刻から2人が腰を下ろしている白いベンチの上に右膝を立てて、さらにそれに右肘をつぎ木して頬杖をつくる。

 芝生のむこうの大木の下に“考える人”の銅像が置かれていた。生まれつき感化されやすい性質のMは、無意識のうちにそれに感化されたのだが、無意識のうちに感化されるくらいだから、彼の頭の中には当然なにもひらめかない。ただボーバクとした白い地平線のようなものが、じわりふわりとただようだけである。

(あれがトンネルの出口かな)

とMは思った。

「そうです。あれとは何のことか知りませんが、まさしくそれはトンネルの出口ですよ、Mさん」

「あれ。なんだい。先生も赤ん坊みたいに人の心が読める」

「考えていることを口に出して言えば、人には耳があるから聞こえます」

医師はすこし哀れむような声で言った。しかしすぐに思いなおして、笑顔にビジネスと使命感を混ぜ合わせた元の木阿弥になってつづける。

「さ、さ。それよりもトンネルの出口を目ざして歩きましょう。つづけて何が起こったかを思い出してわたしに話してください。考えてはいけませんよ。思い出して、思い出したことをそのまま話しつづければいいんです」

「いやだよ」Mはスネた声を出した。「いつもその手に乗って、しまいには頭がこんがらがっちゃうんだもの」

 「ワッハハハ。ばれたか。今日はいつもとちょっと様子がちがうみたいだな。わッかりました。それではちょっとやり方を変えてみますか。そうですね――それじゃわたしが質問をして、あなたはそれに答えるという形にしましょうか。あ、それがいい、それがいい、とMさんは言いました。いいですね。いいですね」

「………」

「あなたは今なにも言わなかったつもりでしょうが、ちゃんとはっきりと“いいですよ”と言いましたよ。言わなかったことは口に出し、口に出したことは言ってない。夢と現実虚虚実実の世界が、入りみだれてコンゼン一体を成しているのが今のあなたの状態です。したがってわたしの言うことをすべて信じるように。

 それではいいですかあ、質問に行きますよ。考えてはいけません。答えは考えることなく、答えようとして思い出せばいいんです。

 しからば質問の一。

 赤ちゃんがはじめてあなたに話しかけた夜、あなたは子供の世話なんかしたことのないはずの奥さんが、手ぎわ良く赤ちゃんにミルクを飲ませるのを目のあたりにして、何かがおかしいと感じた。あなたはいったいなぜ何かがおかしい、と感じたのでしょうか。あ、あ、あ、あああああああ。またあなたは夢の世界に行こうとしている。奥さんはあなたと結婚したとき、ちっとも処女なんかではなくて、子供をぼんぼこぼんぼこ何人もひり落としたことのあるあばずれだった、とありもしない虚構の世界に安らぎを見出そうとしている。現実に戻りなさい。真実をしっかりと見つめなさい。

 あれは非常に啓示的な出来事だったのですよ。あなたはそのことを良く知っている。もう10日以上も同じことをしつこくあなたの頭の中に吹きこんできたわたしですよ。がっかりさせないで下さいね。さ、良く思い出して答えてごらん。さ。さ。ささささささささささささささ」

 「………妻は……姦婦だ…………」

「まあた。股股股股股股股! めっ!そういうヒネたことを言ってはいけません。そんなフィクションはあなたが考えたことでもなければ体験したことでもない、夢の世界だとあなたは思いたいと思っている。その思いたいと思っている部分が真実の世界で、あなたは本当はそれを信じているんですよ。いいですか。しっかりとそのことを頭にたたきこんで。

 はい。はいはいはいはい。しっかりと真実が見えますね。はい、その通り。今あなたは黙っていると自分では思っていますが、現実にはちゃんとあれは神聖な出来事だった、とあなたが信じていることを口に出して言いました。それでいいんですよ。このことをしっかり覚えておいて、明日わたしが同じ質問をしたら、必ず自分の過去の体験の一部だと思いこんでわたしに話して下さい。いいですね。

 はい。それでは質問の2に行ってみます。

 あなたは赤ちゃんがふしぎな能力を持って生まれたのは、もしかすると人智を超えた何か宇宙的なものが関係しているのではないかと疑い、しかもそれはどこかで聞いたことがあるような話だと感じた。それはいったいなんなのでしょうか。思い出して。はい、ぐっと力んで思い出してごらんなさい。しかし、考えすぎてはいけません。考える必要はないのです。ゆっくり、ゆっくりと思い出せばいいのですよ。思い出したことがあなたの信じていることで、信じていることがあなたの頭の中に浮かんでいるんですから。ほら……そうそう。ゆっくり。ゆっくりと自然に………」

 医師は催眠術でもかけるようにMをさそいながら、彼自身も術にかかった魔術師みたいなうっとりした目つきになる。

 さそわれるMの目つきはというと、医師のそれよりももっとうっとりとすわってしまって、彼の目は医師の目、医師の目はMの目となって、且つ医師の側にも同じ混乱が起こったからたまらない。2人の日本人の視線はぐちゃらもじゃらにからみあって、ついに2体が1体になってしまった。

 「さあ、ようやく調子が出てきたぞ。このままつづけて質問の3に行こう。はい、いいですかあ。今度は赤ちゃんのことを頭に浮かべて――考えちゃダメ。思い出すだけですよ。いいですかあ。

 あなたは赤ちゃんが人の気を引いてやまないのは、ただ単に容貌が美しいせいではなくて、なにか特別のふしぎな魅力があるからではないかと考えた。思い出しましたか……いいですね。

 その通りです! あなたは100パーセント真っ正直に正しい。

 赤ちゃんは神の子です。だから赤ちゃんを見る人は誰もがギョッとして立ちすくみ、一瞬のうちに自分の身の上と赤ちゃんのそれを比較し納得して、それから柔和な顔つきになってうっとりとその姿をながめ回さずにはいられなかったのです。人々は赤ちゃんを通して神を見たのです。そうでしょう……? よーく思い出して。ほーら今あなたが思い出していることが、あなたの信ずるべき唯一絶対の真実です。考えてはいけません。考えると疑いが生まれてそこはたちまち雪国ですよ。思い出してそのまま信じてしまえばそこは神の国。さ。さ。ささささささささささ。ただひたすら信じるのです。

 ――信じましたか。信じていますね。そう。それが正しい。あなたは信じている。さあ、それでは核心に行きます。いいですかあああああ、赤ちゃんは神の子で、すると当然……奥さんは……そう、聖母マリア…そう。その通りです。しからば、あなたは―――」

「ぼくはヨセフです」

 Mの口からごく自然に言葉がもれて出た。とろりととろけるような甘い気分がMの全身全霊を支配している。考えるのも思い出すのもすべてが面倒で気だるい。まるでアヘンをしこたま吸いこんだような―――。

 医師は満足げにうなずいた。うなずきながら、彼は吊り目の目をさらに吊り上げて、憑かれたようにダメを押しつづけた。

「ほーら、思い出した。その通り。しっかりとそのことを覚えておくんですよ。明日になってもあさってになっても、9月10月11月がきて来年2年3年10年たっても、あなたはそのことを覚えておいて下さいよ。あなたはその輝かしい真実のおかげでりっぱなカトリック教徒になるんですから。赤ちゃんは神の子。奥さんは聖母マリア。あなたはヨセフ。コキュなんかじゃありませんよ。あなたはヨセフ。ヨセフはあなた。あなたはヨセフ、ヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフヨセフ…あなたはヨセフはあなた……」

医師はMの耳に口を押しつけるようにしてささやきつづける。その声はMの頭の中で神がかり的に大反響して、福音の渦巻になった。

 

 2人の日本人の様子を病院の一角にあるチャペルの窓からのぞき見ている男女がいた。         

 1人は初老の神父。もう1人はMの妻のドリエラである。

「御主人はこれで妻に裏切られた苦しみを知らずに済み、しかもりっぱなカトリック教徒になる。一石二鳥というやつじゃよ。フオッホホホホホホホ」

神父が便秘の化鳥のような声で笑った。

「でも、神父さま、ほんとにうまく行きますでしょうか」

ドリエラが聞いた。

「お疑いですかな」

「だって、あの先生もここの患者の1人だというのでは心配で――」

「あれでも布教に熱心な信者の1人には違いないのじゃよ。特に同胞の日本人を折伏する段になると、ほとんど狂信的と言っていい力を発揮する。彼がここの病院に収容されているのもまさにそれが理由でしてな。これまで彼の手にかかってカトリックに改宗しなかった日本人は1人もいない。その点は心配しなくてもよろしい」

 ドリエラの顔にほっと安堵の色がにじみ出る。神父が素早くくそれを認めてたしなめた。

「しかし夫を裏切っているあなたの罪がそれで消えるわけではありませんぞ」

「はい。分かっております神父さま」

ドリエラは神妙に答えた。

「赤ちゃんは元気にしていますか」

神父が話題を変えた。

「はい。おかげさまで」

「ふむ――。いくら神経衰弱で頭がおかしくなっていたとはいえ、御主人が人の心を読み言葉をしゃべると思いこんだほどの赤ん坊だ。本当に神の申し子かもしれませんぞ。フオッホホホホホ―――して、わしの種かの」

「め、めっそうもない! それにしては見た目が美しすぎます」

ドリエラは思わず言って、しまった、とばかりに右手で口を押さえた。神父は苦りきった顔で相手をにらみつけた。

「―――ったく。どうしようもない女だの。約束が守られるかどうか不安になってきたぞ」

「お許し下さい神父さま。約束はかならず守ります。今後はきっと心は主人だけに、体は神父さまだけに操を立てて神の御心に添うように生きてまいります。きっとそういたします」

 信者は皆、真っ正直に生きている、と下界を見おろしながら神がつぶやいた。

                                                                      

                                         (了)

 

 

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皇太子を「王太子」と言い換えるバカの大壁

イラスト ©ザ・プランクス

 

 

中東などの皇太子をあえて「王太子」と名づけたがる人がいます。

皇太子を「王太子」と言うのは、野球の早慶戦を「慶早戦」とわざと言い換えるようなものです。

要するに、関係者だけが悦に入っている図が明白な、バカの大壁です。

この場合の関係者とは、ネトウヨヘイト系排外&差別主義者と筆者が規定している日本洞窟内の民族主義系住民です。

彼らは支配者である天皇を他の支配者とは違うと見る欺瞞の心根と、欧米への劣等意識の裏返しである差別感情から、中東域の皇太子のみを敢えて王太子と言い換えたがります。

その証拠に彼らは、例えば英国王室の皇太子を王太子と言い換えようとは夢にも思いません。

決まって欧米外の王室の世子のみをそう呼ぼうとします。それは偏見差別体質の現れ以外のなにものでもありません。

天皇は元々は、世界のあらゆる国の王や帝王や皇帝と同じく、抑圧と殺戮と暴力によって民衆の上に君臨した権力者です。皇太子はその後嗣であり次代頭首です。

つまり天皇も皇太子も共にアナクロな概念であり反民主主義的な存在です。

その後天皇は象徴となり、やがて平成の天皇の如き崇高な人格者も出ました。その源である天皇家は尊敬に値するものです。

だが天皇は、日本洞窟内民族主議者が悪用する可能性を秘めた「天皇制」に守られた存在である限り、あくまでも否定的なコンセプトでもあります。

世界の主要国の中には、未だに王権あるいは王権の残滓にひれ伏す日本や英国のような国もあります。

2国は民主主義国家でありながら、実は未だに王権の呪縛から精神を解放できない後進性を持つ、似非民主主義国家です。

なぜなら真の民主主義国家では、国家元首を含む全ての公職は、主権者である国民の選挙によって選ばれるべきものだからです。

それは「全ての人間は平等に造られている」 という人間存在の真理の上に造られた制度であり哲学です。

人が皆平等である真の民主主義世界では、王権や天皇権があたかも降臨した如くひとりの人間や家族に与えられることはありません。

天は人の上に人を作らず、天は人の下に人を作らない。

人は学び努力をすることで人の上に押し上げられ、身を粉にして世に尽くすという約束をすることで、選挙を介して首班や国家元首になるべきです。

生まれながらにして人の上に立つ人間の存在を認めるのは、愚かであり欺瞞であり恥ずべきことです。

 

 

 

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 生きる奇跡

この世のあらゆるものは「当たり前」と思った瞬間に色あせます。

それを「奇跡」と思ったとたんに輝きます。

たとえば一輪の花を見て、当たり前ジャン、と思ったとたんに花は枯れます。

感動がなくなるからです。

見つめて、その美しさを「奇跡だ・・」と感じた瞬間に花は永遠の命を得ます。

魂の震えが止まなくなるからです。

この世の中のものは全てが奇跡です。

ならば、どうということもない自らの存在も―全てが奇跡なのだから―むろん奇跡です。

奇跡と見なせば、どうでもいい存在の自分も輝いて見える、と信じたいところですが中々そうはいきません。

なので奇跡を求めて、今日も懸命に生きていくしかありません。

 

 

 

 

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敬老の日という無礼

日本独特のコンセプト、敬老の日がまた巡って来ます。

先年亡くなったイタリア人の義母が間もなく90歳になろうとしていた頃、日本には「敬老の日」というものがある、と会食がてらに話したことがあります。

義母は即座に「最近の老人は私を含めてもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪しました。

老人は適当な年齢で死ぬから大切にされ尊敬される。いつまでも生きていたら若い者の邪魔になるだけだ、と義母は続けました。

そう話すとき義母は微笑を浮かべていました。しかし目は笑っていません。彼女の穏やかな表情を深く検分するまでもなく、筆者は義母の言葉が本心から出たものであることを悟りました。

老人の義母は老人が嫌いでした。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観でした。

そしてその頃の義母自身は筆者に言わせると、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくありませんでした。

それなのに彼女は、老人である自分が他の老人同様に嫌いだというのです。なぜならいつまで経っても死なないから。

筆者は正直、死なない自分が嫌い、という義母の言葉をそのまま信じる気にはなれませんでした。それは死にたくない気持ちの裏返しではないかとさえ考えました。

義母は少し足腰が弱かった。大病の際に行われたリンパ節の手術がうまく行かずに神経切断につながったのです。ほとんど医療ミスにも近い手違いのせいで特に右足の具合が悪くなっていました。

足腰のみならず、彼女は体と気持ちがうまくかみ合わない老女の自分がうとましい。若くありたいというのではない。自分の思い通りに動かない体がとても鬱陶しい。いらいらする、と話しました。

もう90年近くも生きてきたのだ。思い通りに動かない体と、思い通りに動かない自分の体に怒りを覚えて、四六時中いら立って生きているよりは死んだほうがまし、と感じるのだといいます。

そういう心境というのは、彼女と同じ状況にならない限りおそらく誰にも理解できないのではないでしょうか。体が思い通りに動かない、というのは老人の特性であって、病気ではないでしょう。

そのことを苦に死にたい、という心境は、少なくとも今のままの筆者にはたぶん永遠に分からない。人の性根が言わせる言葉ですから彼女の年齢になっても分かるかどうか怪しいところです。

ただ彼女の潔(いさぎよ)さはなんとなく理解できるように思いました。彼女は自分の死後は、遺体を埋葬ではなく火葬にしてほしいとも願っていました。埋葬が慣例のカトリック教徒には珍しい考え方です。筆者はそこにも義母の潔さを感じました。

また義母は将来病魔に侵されたり、老衰で入院を余儀なくされた場合、栄養点滴その他の生命維持装置を拒否する旨の書類も作成し、署名して妻に預けていました。

生命維持装置を使うかどうかは、家族に話しておけば済むことですが、義母はひとり娘である筆者の妻の意志がゆらぐことまで計算して、わざわざ書類を用意したのです。

義母はこの国の上流階級に生まれました。フィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきました。学問もあり知識も豊富でした。

彼女が80歳を過ぎて患った大病とは子宮ガンです。全摘出をしました。その後、苛烈な化学療法を続けましたが、彼女は副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をひとことも愚痴ることがありませんでした。

義母は90歳になんなんとするその頃までは、毎日を淡々と生きていました。

理知的で意志の強い義母は、あるいは普通の90歳前後の女性ではなかったのかもしれません。ある程度年齢を重ねたら、進んで死を受け入れるべき、という彼女の信念も特殊かもしれません。

だが筆者は義母の考えには強い共感を覚えました。それはいわゆる「悟り」の境地に達した人の思念であるように思いました。理知的ではありませんでしたが、悟りという観点では筆者の死んだ母も義母に似ていました。

日本の高齢者規定の65歳を過ぎたものの、当時の義母から見ればまだ「若造」であろう筆者は、この先運よく古希を迎えさらに80歳まで生きるようなことがあっても、まだ死にたくないとジタバタするかもしれません。

それどころか、義母の年齢やその先までも生きたいと未練がましく願い、怨み、不満たらたらの老人になるかもしれない。いや、なりそうです。

そこで義母を見習って「死を受容する心境」に到達できる老人道を探そうかと思う。だが明日になれば筆者はきっとそのことを忘れていることでしょう。

常に死を考えながら生きている人間はいません。義母でさえそうでした。死が必ず訪れる未来を忘れられるから、人は老境にあっても生きていけるのです。だが時おり死に思いをめぐらせることは可能です。

少なくとも筆者は、「死を受容する心境」に至った義母のような存在を思い出して、恐らく未練がましいであろう自らの老後について考え、人生を見つめ直すことくらいはできるかもしれません。

自らでは制御できない死の時期や形態を想像して「いかに死ぬか」を考えるとは、つまり、いかに生きるか、という大きな問いを問うことにほかなりません。

義母は当時、足腰以外はいたって元気でした。身の回りの世話をするヘルパーを一日数時間頼むものの、基本的には「自立生活」を続けていました。そんな義母にとっては「敬老の日」などというのは、ほとんど侮辱にも近いコンセプトでした。

「同情するなら金をくれ」ではないが、「老人と敬うなら、私が死ぬまで自立していられるようにちゃんと手助けをしろ」というあたりが、日本の「敬老の日」への批判にかこつけて彼女が僕ら家族や役場、ひいてはイタリア政府などに向かって言いたかったことなのでしょう。

言葉を変えれば、義母の言う「いつまでも死なない老人を敬う必要はない」とはつまり、元気に長生きしている人間を「老人」とひとくくりにして、「敬老の日」などと持ち上げ尊敬する振りで実は見下したり存在を無視したりするな、ということだったのだろうと思うのです。

 

 

 

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火葬と埋葬

イタリア人の筆者の妻は、埋葬を葬儀の基本とするカトリック教徒です。ところが、彼女はいつか訪れる死に際しては、それを避けて火葬にされたいと考えています。

しかし、カトリック教徒が火葬を望む場合には、生前にその旨を書いて署名しておかない限り、自動的に埋葬されるのが習わしです。

妻は以前から埋葬という形に抵抗感を持っていましたが、筆者と結婚し日本では火葬が当たり前だと知ってからは、さらにその思いを強くしました。日本人の筆者はもちろん火葬派です。

筆者は先年、亡くなった母が荼毘に付された際、火葬によって肉体が精神に昇華する様をはっきりと見ました。

母の亡きがらがそこにある間は苦しかった。が、儀式が終わって骨を拾うとき、ふっきれてほとんど清々しい気分さえ覚えました。

それは母が、肉体を持つ苦しい存在から精神存在へと変わった瞬間でした。

以来、死に臨んでは、妻も自分も埋葬ではなく火葬という潔い形で終わりたいと、いよいよ切に願うようになっています。

葬礼はどんな形であれ生者の問題です。生き残る者が苦しい思いをする弔事は間違っています。

筆者は将来、妻が自分よりも先立った場合、もしかすると彼女が埋葬されることには耐えられないかもしれません。

土の中で妻がゆっくりと崩れていく様を想うのは、筆者には決してたやすいことではない。キリスト教徒ではない分、遺体に執着して苦しむという事態もないとは言えません。

将来、十中八九は男の筆者が先にいくのでしょうが、万が一ということもあります。念のために、一刻も早く火葬願いの書類を作ってくれ、と筆者は彼女に言い続けてます。

普通なら妻も筆者もまだ死ぬような年齢ではありませんが、それぞれの親を見送り、時々自らの死を他人事ではないと思ったりする年代にはなりました。

何かが起こってからでは遅いのです。

 

 

 

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知識ではなく情感を豊かにする作業が読書である

読書とは役に立たない本を読むことです。経済本や金融本、各種のノウハウ、ハウツーもの、またうんちく、知見、学術、解説等々の本を読むのは読書ではない。それは単なる情報収集作業です。

実用が目的のそれらの本に詰まっている情報はむろん大切なものです。すぐに役に立つそれらの消息は人の知識を豊富にしてくれます。大いなる学びともなります。

しかしそれらの情報は、思索よりも情報自体の量とそれを収集する速さが重視される類の、心得や見識や聞き覚えであって、人間性を深める英知や教養ではありません。

要するに読書とは、すぐには役に立たないが人の情感を揺さぶり、心や精神を豊かにし深化させてくれる小説、詩歌、随筆、エッセイ、ドキュメント等々に触れること。特に人間を描く小説が重要です。

人は一つの人生しか生きられません。その一つの人生は、他者との関わり方によって豊かにもなれば貧しくもなります。そして他者と関わるとは、他者の人生を知るということです。

全ての他者にはそれぞれの人生があります。だがわれわれ一人ひとりは決して他者の人生を生きることはできません。人が他者の人生の全てを実地に知ることは不可能です。

その一方で小説には無数の他者の人生が描かれています。小説は他者の人生をわれわれに提示し疑似体験をさせてくれます。小説家が描く他者のその人生は、実は本物と同じです。

なぜなら永遠に他者の人生を生きることができないわれわれにとっては、他者の実際の人生は想像上でしか存在し得ません。つまり疑似人生。小説家が描く世界と同じなのです。

そこだけに留まりません。

優れた小説家が想像力と知識と人間観察力を縦横に駆使して創り上げた他者の疑似人生は、それを体験する者、つまり読者の心を揺り動かします。

読者が心を打たれるのはストーリーが真に迫っているからです。そこに至って他者の擬似人生は、もはや疑似ではなくなり真実へと昇華します。

読書をすればするほど疑似体験は増え、真実も積み重なります。

人はそうやってより多くの他者の人生を知り、学ぶことで、依って自らの人生も学びます。そこに魂の豊穣また情緒の深化が醸成されます。それが読書の冥利なのです。

 

 

 

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令和5年8月15日にも聞く「東京だョおっ母さん」~兵士偶像化の危うさ

                             ©ザ・プランクス

島倉千代子が歌う、母を連れて戦死した兄を靖国神社に偲ぶ名歌、「東京だョおっ母さん」を聞くたびに筆者は泣きます。言葉の遊びではなく、お千代さんの泣き節の切ない優しさに包まれながら、東京での学生時代の出来事を思い出し、筆者は文字通り涙ぐむのです。

筆者は20歳を過ぎたばかりの学生時代に、今は亡き母と2人で靖国神社に参拝しました。筆者の靖国とは第一に母の記憶だ。そして母の靖国神社とは、ごく普通に「国に殉じた人々の霊魂が眠る神聖な場所」です。母の心の中には、戦犯も分祀も合祀も長州独裁も明治政府の欺瞞も、つまり靖国神社の成り立ちとその後の歴史や汚れた政治に関わる一切の知識も、従って感情もありませんでした。母は純粋に靖国神社を尊崇していました。

「東京だョおっ母さん」では戦死した兄が

♫優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫

と切なく讃えられます。

歌を聞くたびに筆者は泣かされます。靖国に祭られている優しい兄さんに、同じ神社に付き添って行った、温和で情け深い母の記憶が重なるからです。

だが涙をぬぐったあとでは、筆者の理性がいつもハタと目覚めます。戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。だが同時に彼は凶暴な兵士でもあったのです。

優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶でした。彼らは戦場で壊れて悪魔になりました。歌からはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちています。

日本人は自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと思い込みがちです。

だが筆者は歌を聞いて涙すると同時に、「壊れた日本人」の残虐性をも思わずにはいられません。

不幸中の幸いとも呼べる真実は、彼らが実は「壊れた」のではないということです。彼らは国によって「壊された」のでした。

優しい心を壊された彼らは、戦場で悪鬼になりました。敵を殺すだけではなく戦場や征服地の住民を殺し蹂躙し貶めました。

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいます。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、危険な精神作用です。多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響です。

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる者や、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する者などが主体です。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々です。その気分は往々にして被害者意識を呼び込みます。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張します:

兵士は命令で泣く泣く出征していった。彼らは普通の優しい父や兄だった。ウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落しています。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由です。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」なのです。

凶暴であることは兵士の義務です。戦場では相手を殺す残虐な人間でなければ殺されます。殺されたら負けです。従って勝つために全ての兵士は凶暴にならなければなりません。だが旧日本軍の兵士は、義務ではなく体質的本能的に凶暴残虐な者が多かったフシがあります。彼らは戦場で狂おしく走って鬼になりました。「人間として壊れた」彼らは、そのことを総括せずに戦後を生き続け多くが死んでいきました。

日本人の中にある極めて優しい穏やかな性格と、それとは正反対の獣性むき出しの荒々しい体質。どちらも日本人の本性です。凶暴、残虐、勇猛等々はツワモノの、つまりサムライの性質。だがサムライは同時に「慎み」も持ち合わせていました。それを履き違えて、「慎み」をきれいさっぱり忘れたのが、無知で残忍な旧日本帝国の百姓兵士でした。

百姓兵の勇猛は、ヤクザの蛮勇や国粋主義者の排他差別思想や極右の野蛮な咆哮などと同根の、いつまでも残る戦争の負の遺産であり、アジア、特に中国韓国北朝鮮の人々が繰り返し糾弾する日本の過去そのものです。アジアだけではありません。日本と戦った欧米の人々の記憶の中にもなまなましく残る歴史事実。それを忘れて日本人が歴史修正主義に向かう時、人々は古くて常に新しいその記憶を刺激されて憤るのです。

百姓兵に欠如していた日本人のもう一つの真実、つまり温厚さは、侍の「慎み」に通ずるものであり、優しい兄さんを育む土壌です。それは世界の普遍的なコンセプトでもあります。戦場での残虐非道な兵士が、家庭では優しい兄であり父であることは、どこの国のどんな民族にも当てはまるありふれた図式です。しかし日本人の場合はその落差が激し過ぎる。「うち」と「そと」の顔があまりにも違い過ぎるのです。

その落差は日本人が日本国内だけに留まっている間は問題ではありませんでした。凶暴さも温厚さも同じ日本人に向かって表出されるものだったからです。ところが戦争を通してそこに外国人が入ったときに問題が起こりました。土着思想しか持ち合わせない多くの旧帝国軍人は、他民族を「同じ人間と見なす人間性」に欠け、他民族を殺戮することだけに全身全霊を傾ける非人間的な暴徒集団の構成員でした。

そしてもっと重大な問題は、戦後日本がそのことを総括し子供達に過ちを充分に教えてこなかった点です。かつては兄や父であった彼らの祖父や大叔父たちが、壊れた人間でもあったことを若者達が知らずにいることが重大なのです。なぜなら知らない者たちはまた同じ過ちを犯す可能性が高まるからです。

日本の豊かさに包まれて、今は「草食系男子」などと呼ばれる優しい若者達の中にも、日本人である限り日本人の獣性が密かに宿っています。時間の流れが変わり、日本が難しい局面に陥った時に、隠されていた獣性が噴出するかもしれません。いや、噴出しようとする日が必ずやって来ます。

その時に理性を持って行動するためには、自らの中にある荒々しいものを知っておかなければなりません。知っていればそれを抑制することが可能になります。われわれの父や祖父たちが、戦争で犯した過ちや犯罪を次世代の子供達にしっかりと教えることの意味は、まさにそこにあります。

真の悪は、言うまでもなく兵士ではありません。戦争を始める国家権力です。

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関でした。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのです。

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして縛り上げ、ついには破壊しました。

それらの事実は敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰しました。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れました。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことです。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生しました。

歴史修正主義者は兵士を礼賛します。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称えます。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいません。

彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしません。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出しています。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫ります。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒ります。

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論します。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは、実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利しています。

なぜなら謝罪しないことが問題なのではありません。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのです。

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまいます。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相な輩が、かつて国を誤りました。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしています。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を国葬にした岸田政権のあり方です。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行です。

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、繰り返し何度でも言いますが、日本が戦争を徹底総括していないからです。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の過ちへの「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになります。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるでしょう。

今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えません。

拙速に安倍元首相の国葬を行った政府の存在や、兵士を感傷的に捉えたがる国民の多い社会は、78回目の終戦記念日を迎えても依然として平穏な戦後とはほど遠い、と筆者の目には映ります。

 

 

 

 

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