飛び石連休という貧困

加筆再録

ことしのゴールデンウイークは、4月27日(土)~4月29日(月)と、5月3日(金)~5月6日(月)の連休の間の平日3日間を休めば、10連休とすることが可能でした。

だが残念ながら、そんな勇気を持った会社はまだまだ少数派のようです。

2019年、日本のゴールデンウイークが過去最長の10連休になるというニュースが話題になりました。

それに関連していわゆる識者や文化人なる人々が意見を開陳していましたが、その中にはまるで正義漢のカタマリのような少し首を傾げたくなる主張もありました。

いわく10連休は余裕のあるリッチな人々の特権で、休みの取れない不運な貧しい人々も多い。だから、10連休を手放しで喜ぶな。貧者のことを思え、と喧嘩腰で言い立てたりもしていました。

10連休中に休めない人は、ホテルやレストランやテーマパークなど、など、の歓楽・サービス業を中心にもちろん多いと考えられます。

しかし、まず休める人から休む、という原則を基に休暇を設定し増やしていかないと「休む文化」あるいは「ゆとり優先のメンタリティー」は国全体に浸透していきません。10連休は飽くまでも善だったと筆者は思います。

休める人が休めば、その分休む人たちの消費が増えて観光業などの売り上げが伸びます。その伸びた売り上げから生まれる利益を従業員にも回せば、波及効果も伴って経済がうまく回ります。

利益を従業員に回す、とは文字通り給与として彼らに割増し金を支払うことであり、あるいは休暇という形で連休中に休めなかった分の休息をどこかで与えることなどです。

他人が休むときに休めない人は別の機会に休む、あるいは割り増しの賃金を得る、などの規則を法律として制定できるかどうかが、真の豊かさのバロメーターです。

そうしたことは強欲な営業者などがいてうまく作用しないことが多い。そこで国が法整備をして労働者にも利益がもたらされる仕組みや原理原則を強制する必要があります。

たとえばここイタリアを含む欧州では、従業員の権利を守るために日曜日に店を開けたなら翌日の月曜日を閉める。旗日に営業をする場合には割り増しの賃金を支払う、など労働者を守る法律が次々に整備されてきました。

そうした歴史を経て、欧州のバカンス文化や「ゆとり優先」のメンタリティ-は発達しました。それもこれも先ず休める者から休む、という大本の原則があったからです。

もちろん休めない人々の窮状を忘れてはなりませんが、休める人々や休める仕組みを非難する前に、働く人々に窮状をもたらしている社会の欠陥にこそ目を向けるべきなのです。

休むことは徹頭徹尾「良いこと」です。人間は働くために生きているのではありません。生きるために働くのです。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものです。

人生はできれば休みが多い方が心豊かに生きられる。特に長めの休暇は大切です。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの働く日本人を見るたびに、筆者はそういう思いを強くします。

バカンス大国ここイタリアには、たとえば飛び石連休というケチなつまらないものは存在しません。飛び石連休は「ポンテ(ponte)=橋または連繋」と呼ばれる“休み”でつなげられて「全連休」になります。

つまり 飛び石連休の「飛び石」は無視して全て休みにしてしまうのです。言葉を変えれば、飛び飛びに散らばっている「休みの島々」は、全体が橋で結ばれて見事な「休暇の大陸」になります。

長い夏休みやクリスマス休暇あるいは春休みなどに重なる場合もありますが、それとは全く別の時期にも、イタリアではそうしたことが一年を通して起こります。

旗日と旗日の間をポンテでつなげて連休にする、という考え方が当たり前になっているのです。

飛び石、つまり断続または単発という発想ではなく、逆に「連続」にしてしまうのがイタリア人の休みに対する考え方。休日を切り離すのではなく、できるだけつなげてしまうのです。

「連休」や「代休」という言葉があるぐらいですからもちろん日本にもその考え方はあります。だがその徹底振りが日本とイタリアでは違います。勤勉な日本社会がまだまだ休暇に罪悪感を抱いてるらしいことは、飛び石連休という思考法が依然として存在していることで分かるように思います。

一方でイタリア人は、何かのきっかけや理由を見つけては「できるだ長く休む」ことを願っています。休みという喜びを見出すことに大いなる生きがいを感じています。 そして彼らは願ったり感じたりするだけではなく、それを実現しようと躍起になります。

そんな態度を「怠け者」と言下に切りすてて悦に入っている日本人がたまにいます。が、彼らはイタリア的な磊落がはらむ豊穣が理解できないのです。あるいは生活の質と量をはき違えているだけの心の貧者です。

休みを希求するのは人生を楽しむ者の行動規範であり「人間賛歌」の表出です。それは、ただ働きずくめに働いているだけの日々の中では見えてきません。休暇が人の心身、特に「心」にもたらす価値は、休暇を取ることによってのみ理解できるように思います。

2019年に出現した10連休は、日本の豊かさを示す重要なイベントでした。日本社会が、飛び石連休を当たり前に「全連休」に変える変革の“きっかけ”になり得る出来事でした。

だが冒頭で述べたようにそれはまだ先の話のようです。

日本経済は生産性の低さも手伝って低迷していますが、人々が休むことを学べばあるいはそのトレンドが逆転する可能性も大いにあるのに、と残念です。

 

 

 

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多様性信者を装うはねっ返りの痴態

イタリアの有名なストリートアーティスト・ジョリット(Jorit)が、ロシアのソフィで開かれた青少年フォーラム中にプーチン大統領と一緒に撮った写真が物議をかもしています。

ジョリットはフォーラム会場で突然立ち上がり、壇上にいるプーチン大統領に「あなたがわれわれと何も変わらない人間であることをイタリア人に知らせたい。なので一緒に写真を撮らせてほしい」と語りかけました。

プーチン大統領は気軽に要求に応じ、ジョリットの肩を抱いて嬉々としてカメラに収まりました。

写真そのものも、明らかにプーチン大統領に媚びている発言も、人々の肝をつぶしました。イタリア中に大きな反響が起こりました。そのほとんどがジョリットへの怒りの表明でした。

多くの人が、「プーチンのプロパガンダに乗った愚か者」「プーチンの宣伝傭兵」「金に転んでプーチンの役に立つことばかりをするバカ」などとジョリットを激しく指弾しました。

イタリアは多様性に富む国です。カトリックの教義に始まる強い保守性に縛られながらも、さまざまの考えや生き方や行動が認められ千姿万態が躍動します。

それは独立自尊の気風が強烈だったかつての都市国家群の名残です。外から見ると混乱に見えるイタリアの殷賑は、多様性のダイナミズムがもたらすイタリアの至宝なのです。

言うまでもなくそこには過激な思想も行動もパフォーマンスも多く見られます。ジョリットのアクションもそうした風潮のひとつです。

多様性を信じる者はジョリットの行動も認めなければなりません。彼の言動を多様性の一つと明確に認知した上で、自らの思想と情動と言葉によって、それをさらに鮮明に否定すればいい。

イタリアにはジョリットの仲間、つまりプーチン支持者やプーチン愛好家も多くいます。先日死亡したベルルスコーニ元首相がそうですし、イタリア副首相兼インフラ大臣のサルヴィ・ビーニ同盟党首などもそうです。

隠れプーチン支持者を加えれば、イタリアには同盟ほかの政党支持者と同数程度のプーチンサポーターがいると見るべきです。

プーチン大統領は、ジョリットの笑止なパフォーマンスを待つまでもなく人間です。しかし、まともな人間ではなく悪魔的な人間です。

彼と同類の人間にはヒトラーがいます。だがヒトラーはヒトラーを知りませんでした。ヒトラーはまだ歴史ではなかったからです。

一方でプーチン大統領はヒトラーを知っています。それでも彼はヒトラーをも髣髴とさせる悪事を平然とやってのけてきました。

ヒトラーという歴史を知りつつそれを踏襲するとも見える悪事を働く彼は、ヒトラー以上に危険な存在という見方さえできます。

ヒトラーの譬えが誇大妄想的に聞こえるなら、もう一つの大きな命題を持ち出しましょう。

欧州は紛争を軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っています。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立しました。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもありました。

筆者が規定する「欧州の良心」とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことです。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生みました。

良心に目覚めた欧州は、武器は捨てないものの“政治的妥協主義”の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになりました。できるようになった、と信じました。

欧州はかつて、プーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえしました。

言葉を替えれば欧州は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けました。

彼は欧州を始めとする西側の自由主義とは相容れない独裁者だが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされたのです。

しかし、欧州のいわば希望的観測に基づくプーチン観はしばしば裏切られました。

その大きなものの一つが、2014年のロシアによるクリミア併合です。それを機会にロシアを加えてG8に拡大していたG7は、ロシアを排除して、元の形に戻りました。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨て切れませんでした。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」しました。そうやって自由主義世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまいました。

西側はクリミア以後も、プーチン大統領への強い不信感は抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑いませんでした。

「常識」の最たるものは、「欧州に於いては最早ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない」ということでした。

プーチン・ロシアも血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別していて、専制主義国家ながら自由と民主主義を旗印にする欧州の基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、“殺し合い”は避けるはずだ、と思い込みました。

ところがどっこい、ロシアは2022年2月24日、主権国家のウクライナへの侵略を開始。ロシアはプーチン大統領という魔物に完全支配された、未開国であることが明らかになりました。

プーチン大統領の悪の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を虐殺し続けていることに尽きます。

日本ではロシアにも一理がある、NATOの脅威がプーチンをウクライナ侵攻に駆り立てた、ウクライナは元々ロシアだった、などなどのこじつけや欺瞞に満ちた風説がまかり通っています。

東大の入学式では以前、名のあるドキュメンタリー制作者がロシアの肩を持つ演説をしたり、ロシアを悪魔視する風潮に疑問を呈する、という論考が新聞に堂々と掲載されたりしました。

それらは日本の恥辱と呼んでもいいほどの低劣な、信じがたい言説です。

そうしたトンデモ意見は、愚蒙な論者が偽善と欺瞞がてんこ盛りになった自らの考えを、“客観的”な立ち位置からの見方、と思い込んで吠え立てているだけのつまらない代物です。

それらと同程度の愚劣な大道芸が、イタリアのストリートアーチスト・ジョリットがやらかしたプーチン礼賛パフォーマンスなのです。

 

 



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名優アラン・ドロンの夢幻泡影

フランス映画の大スターアラン・ドロンが、自宅に隠し持っていた拳銃とライフルあわせて72丁と銃弾3000発余りを警察に押収されました。

彼は無許可で大量の銃器を所有していたのです。自宅には射撃場も密かに設置されていました。

ここイタリアを含む欧州には銃の愛好家が多い。アラン・ドロンはそのうちの一人に過ぎません。

公の射撃場も掃いて捨てるほどあります。プライベートなものはさすがにあまり聞きませんが、人里離れた広大な敷地の屋敷内ならあってもおかしくありません。

スター俳優の住まいはまさしくそういう場所のようです。

少しだけ不審に思ったのは、彼がなぜ銃所有許可を取らなかったのかという点です。

大スターだから許可がなくても許されると考えたのなら、ただのたわけでしょう。88歳の今日まで許可申請をしなかったのですからその可能性は高い。

若いころのアラン・ドロンは、のけぞるほどの美男子というだけのダイコン役者でしたが、年を取るにつれて渋い名優へと変貌しました。知性的でさえありました。

それだけによけいに、銃所有許可証を持たないことが不思議に見えます。

馬鹿げたニュースですが、筆者は個人的に興味を覚えました。筆者自身が最近銃に関わっているからです。

20数年前、筆者は自分の中にある拳銃への強い恐怖心を偶然発見しました。

銃に無知というのが筆者の恐怖心の原因でした。筆者はその恐怖心を克服する決心をして、先ず猟銃の扱いを覚えました。

猟銃を扱えるようになると、拳銃への挑戦を開始しました。

公の射撃場で武器を借りインストラクターの指導で銃撃を習います。その場合は的を射ることよりも、銃をいかに安全に且つ冷静に扱うかが主目的になります。

まだ完全には習熟していませんが、拳銃への筆者の恐怖心はほぼなくなって、かなり冷静に銃器を扱うことができるようになっています。

するとスポーツとしての銃撃の面白さが見えてきました。今後はさらに訓練を重ねた上で、拳銃の取得も考えています。

大スターとは違って筆者は銃保持の許可証はとうに取得しています。

恐怖の克服が進み、次いでなぜ銃撃がスポーツであり得るかが分かりかけた時、筆者はそれまでとは違う2つの目的も意識するようになりました

ひとつは、自衛のための武器保持

筆者は少し特殊な家に住んでいます。家の内実を知らない賊が、金目の物が詰まっていると誤解しかねない、落ちぶれ貴族の巨大なあばら家です。

イタリアにゴマンとあるそれらの家の住人はほぼ常に貧しい、ということを知らない阿呆な賊でも、賊は賊す。彼らは大半が殺人者でもあります。

筆者は臆病な男ですが、不運にもそういう手合いに遭遇した場合は、家族を守るために躊躇なく反撃をするであろうタイプの人間でもあります。銃はそのとき大いに役立つに違いありません。

ふたつ目はほとんど形而上学的な理由です。

つまり将来筆者が老いさらばえた状況で、死の自己決定権が法的にまた状況的に不可能に見えたとき、銃によって自ら生を終わらせる可能性です。

むろんそれは夢物語にも似たコンセプトです。なので形而上学的と言ってみました。

万にひとつも実現する可能性はないと思います。しかし、想像を巡らすことはいくらでもできます。

閑話休題

冒頭で触れたようにヨーロッパには銃器の収集家がたくさんいます。

何人かは筆者の周りにもいますし、古い邸宅に年代物の銃器を多く収蔵している家族もいくつか知っています。

ほとんどの古い銃は今も使用可能状態に保たれ且つ厳しく管理されています。それはどこでもどんな銃でも同じ。

アラン・ドロンの銃器のコレクションは、銃を身近に感じることが少なくない欧米の文化に照らして見るべき、と感じます。

意匠が美しく怖いほど機能的で危険な銃器は人を惹きつけます。

アラン・ドロンが、自身が演じた映画の小道具などを通して銃に惹かれていく過程が目に見えるようです。

不法所持はむろんNGですが、彼には犯罪を犯しているという意識はなかったに違いありません。

殺生をしないアラン・ドロンの銃は、欧州伝統の銃文化の枠内にあるいわば美術品のようなもの。

返す返すもそれらの所有申請を怠った大スターの膚浅が悔やまれます。






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安倍派ガサ入れはマフィア逮捕劇の兄弟ドラマ

先日、裏金工作事件に関連して安倍派の池田佳隆衆議院議員が逮捕されました。東京地検特捜部はひょっとすると本気で巨悪に挑もうとしているのかもしれません。

昨年12月、東京地検特捜部が安倍派の事務所に家宅捜索に入りました。

それは良いニュースであり悪いニュースでもありました。

良いニュースとは、特捜部が安倍派に歯向かったことです。

安倍晋三というひとりの議員に過ぎない者が、一国の司法を抑圧し闇の力を行使するなど断じてあってはならないことです。

安倍元首相の力が悪徳の隠ぺいに一役買っていたのなら、彼は死して後もなお、実行犯の議員らと同様に徹底糾弾されるべきです。

死者を鞭打つなという日本独特の美徳は、権力者に対しては示されるべきではない。公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受けます。受け続けなければならない。

悪いニュースは、司法が権力者の前ではへつらっていたくせに、その権力者が死ぬとほぼ同時に復讐に出た卑劣さです。

司法が真に三権の一角を担う存在なら、彼らは安倍元首相が君臨していたころから毅然として、まかり通る理不尽に立ち向かうべきでした。忖度などもってのほかだったのです。

日本の検察は、1警官ごときが「オイ、コラ」と威張っていた未開時代からあまり進歩していません。

検察が罪をでっち上げた最近の冤罪事件「大川原化工機事件」を持ち出すまでもなく、権力を傘に着た専制的な動きが普通に起きます。

東京地検の安倍派へのガサ入れには喝采するものの、そこには彼らの前近代的で傲岸なメンタリティーも一役買っているように見えるのが憂鬱です。

政治に抑圧されていた司法が、闇の力の消失あるいは弱体化によって一気に力を盛り返す事例は、民主主義が歪に発達した国で特によく起こることです。

その分かりやすい例を挙げます。

イタリアで2006年、43年間潜伏逃亡をし続けたマフィアの大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノが逮捕されました。

プロヴェンツァーノは逃亡中のほとんどの時間を、時には妻子までともなってシチリア島のパレルモで過ごしたことが明るみに出ました。

するとマフィアのトップの凶悪犯が、人口70万人足らずのパレルモ市内で、妻子まで引き連れて40年以上も逃亡潜伏することが果たして可能か、という議論がわき起こりました。

それは無理だと考える人々は、イタリアの総選挙で政権が交替したのを契機に何かが動いて、ボス逮捕のGOサインが出たと主張しました。

もっと具体的に言えば、プロヴェンツァーノが逮捕される直前、当時絶大な人気を誇っていたイタリア政界のドン、シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が選挙に 負けて政権から引きずり下ろされました。

そのためにベルルスコーニ元首相はもはやマフィアを守り切れなくなり、プロヴェンツァーノ逮捕のGOサインが出た、というものです。

真偽のほどは今後の検証で明らかにされるでしょうが、政治が組織犯罪に翻弄されることもあるイタリアの民主主義は、日本ほど歪ではないものの未熟で見苦しい点も多々あります。

安倍晋三というラスボスの死去を受けて司法が反撃に出たらしい状況は、ベルルスコーニという権力者の没落と同時に、大ボスの逮捕に向かったイタリアの司法の必殺のチャンバラ劇を思い起こさせます。

昨年末のガサ入れの後、特捜部の動きは少し腰砕けになりつつある、という見方もありました。

しかし、彼らが安倍派の議員の逮捕に踏み切ったのは、特捜部のガッツが本物である証にも見えて頼もしい。ぜひ踏ん張って捜索を強行していってほしいと思います。

 

 

 

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殺人鬼ブレイビクを忘れない

2011年7月、アンネシュ・ブレイビクがノルウエーの首都オスロでほとんどが若者だった77人を殺害し禁固21年の刑を受けました。

ブレイビクは先日、彼が受けている懲罰としての隔離は、人権侵害また非人道的な扱いを禁止する欧州人権条約(ECHR)第3条に違反していると主張しました。

彼は現在、キッチン、食堂、ゲーム機Xbox付きのテレビ室(娯楽室)、バーベル、トレッドミル、ローイングマシン等を備えたフィットネスジム付きの、2階建ての独房に収監されています。

ブレイビクは、2016年にも同様の申し立てをして制限つきの自由を要求し、却下されました。

事件が起きた2011年7月以降しばらくは、ブレイビクが死刑にならず、あまつさえ「たった」21年の禁固刑になったことへの不満がくすぶりました。

だがその不満は実は、日本人を始めとする死刑制度維持国の国民だけが感じているもので、当のノルウェーはもちろん欧州でもそれほど問題にはなりませんでした。

なぜなら、欧州ではいかなる残虐な犯罪者も死刑にはならず、また21年という「軽い」刑罰はノルウェーの内政だから他者は口を挟みませんでした。

人々はむろん事件のむごたらしさに衝撃を受け、その重大さに困惑し怒りを覚えました。

だが、死刑制度のない社会では、犯人を死刑にしろという感情は湧かず、そういう主張もありませんでした。

ノルウェー国民の関心の多くは、この恐ろしい殺人鬼を刑罰を通していかに更生させるか、という点にありました。

ノルウェーでは刑罰は最高刑でも禁固21年です。従ってその最高刑の21年が出たときに彼らが考えたのは、ブレイビクを更生させること、というひと言に集中しました。

被害者の母親のひとりは「 1人の人間がこれだけ憎しみを見せることができたのです。ならば1人の人間がそれと同じ量の愛を見せることもできるはずです」と答えました。

また当時のストルテンベルグ首相は、ブレイビクが移民への憎しみから犯行に及んだことを念頭に「犯人は爆弾と銃弾でノルウェーを変えようとした。だが、国民は多様性を重んじる価値観を守った。私たちは勝ち、犯罪者は失敗した」と述べました。

EUは死刑廃止を連合への加盟の条件にしています。ノルウェーはEUの加盟国ではありません。だが死刑制度を否定し寛容な価値観を守ろうとする姿勢はEUもノルウェーも同じです。

死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮です。筆者は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定します。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェー国民のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、“たった21年”の禁固刑で自由の身となることにはどうしても割り切れないものを感じます。

死刑がふさわしいのではないか、という野蛮な荒ぶった感情はぐっと抑えましょう。死刑の否定が必ず正義なのですから。

しかし、犯行後も危険思想を捨てたとは見えないアンネシュ・ブレイビクの場合には、せめて終身刑で対応するべきではないか、とは主張しておきたい。

その終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいところですが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところでしょうか。

 

 

 



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たとえ裏金作りでも沽券は無いよりあったほうがいい 

金は、天下ならぬ政治の回り物。

政治と金の問題は世界中のどの国にもあります。どの国にもありますが、安倍派の裏金工作は中身がいかにも日本的なところが陰うつです。

日本的とは、裏金作りでさえ集団で成されている事実です。安倍派の閣僚がこぞって辞任したのを見るまでもなく、1人では何もできない者らが集まって悪事を働いていたことが分かります。

似たような事件が例えばここイタリアを含む欧州あるいは南北アメリカなどで起きたなら、それは政治家個々人の裁量でなされる悪事になるに違いありません。

悪事はひとりで働くほうが露見する可能性が低くなります。

同時にそれは、悪事とは言え、自主独立した一個の人格が自己責任において動く、という自我の確立した現代社会の一員としての当たり前の生き方です。

自主性また自我の確立が優先される集団では、それぞれの個性、つまり多様性が、画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをshます。集団の暴走に歯止めがかかるのです。

逆に自主性また自我よりも集団の論理が優先する社会では、何かが起きた場合は集団催眠状態に陥り全体が暴走する可能性が高くなります。

その典型例が国家全体で太平洋戦争に突き進んだ日本の在りし日の姿です。

集団で裏金工作にまい進する安倍派また自民党の各派閥は、第2次大戦という巨大な悲劇を経てもなお変わらない日本の汚点そのものです。

たとえばここイタリアでは2018年に極右と極左が手を結んで連立政権が生まれましたが、彼らが極端へと突っ走ることはありませんでした。

また2022年には極右のメローニ政権が誕生しましたが、これまでのところはやはり過激論には走らず、より穏健な「右派政権」であり続けています。

それらはイタリア社会が、自主性と確固とした自我が担保する多様性に満ちた世界であるがゆえの、ポジティブな現象です。

安倍派裏金工作では、日本の諸悪の原因のひとつである独立自尊の風の欠落、という一面ばかりが見えてやりきれません。

しかもそれらのどんぐりの背比べ政治家群は、安倍元首相という隠れ独裁者の手先だったところがさらに見苦しい。

彼らは集団で安倍元首相の配下になり、集団で裏金工作まで行うという恥ずかしい作業に夢中で取り組んだ節があります。

重ねて不快なのは、安倍派のひいては自民党の主勢力がトランプ主義者の集団である点です。

そのことは2016年、安倍元首相が大統領選に勝った「就任前の」トランプ氏をたずねて諂笑を振りまいた事件で明らかになりました。

ファシスト気質のトランプ前大統領は、一見するとソフトな印象に覆われた、だがその正体は彼と同じくファシスト気質の安倍元首相を、あたかも親友でもあるかのように見せかけて自在に操りました。

ラスボス・トランプ前大統領に仕えたチビボス・安倍元首相の子分の議員らが、「こぞって」犯したのが今回の安倍派裏金工作事件ではないでしょうか。

 

 

 

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Sunak英ココナッツ首相と仲間たちの危うさ

ここ最近イギリスのスナク首相の動向が気になっています。もっと具体的に言えば、スナク首相と彼の取り巻きの、特に有色人種の権力者らの動きです。

スナク英首相は先日、英国を訪問中だったギリシャのミツォタキス首相との会談をドタキャンしました。

ミツォタキス首相は、会談の直前に行われたBBCとのインタビューの中で、「大英博物館所蔵のエルギン・マーブル彫刻群”は、ギリシャのパルテノン神殿から盗み出されたものだ」と発言しました。

スナク首相はミツォタキス首相に歴史的事実を指摘されて逆切れ。返還はイギリスの法律によって禁止されている、と主張し一方的にギリシャ首相との会談をキャンセルしました。

盗人猛々しいとはこのことでしょう。パルテノン神殿から彫刻群を盗み出すのはギリシャの法律で禁止されています。それを犯して持ち去ったイギリスの外交官をギリシャが指弾し盗品の返還を求めるのは当然です。

ミツォタキス首相は、返還を求めるギリシャ政府の姿勢は今に始まったものではなく、かねてから表明された周知のものだ。また人は自分の見解が正しく公正だと確信していれば、反対意見を恐れたりはしない、としてスナク首相の態度を痛烈に批判しました。

ミツォタキス首相の見解はまっとうなものです。イギリスの歴代首相はギリシャの要求に対しては一貫して拒否してきましたが、痛いところを突かれて逆上した者はいません。

むろん首相同士の会見を、視野狭窄そのものとしか見えない形でキャンセルするなどの傲岸な行動に出る者もいませんでした。

スナク首相はハマスvsイスラエル戦争に関しても、強者のイスラエル擁護に狂奔しています。弱者のパレス人への思いやりのひとかけられも感じられない一方的な動きは見苦しい。

もう一人腑に落ちない有色人種の権力者がいます。ハマスvsイスラエル戦争で、パレスチナを支持する人々を「暴徒」「ヘイト犯罪者」などと批判して、職を解かれたスエラ・ブレイバーマン内相です。

彼女はリズ・トラス内閣でも内務大臣を務めましたが、強硬な反移民政策を推し進めて批判され職を辞しました。

ブレイバーマン前内相はスナク首相と同じくインド・パキスタン系移民の子供です。ところが自らの同胞を含む難民・移民には極めて厳しい態度で臨みます。必要以上に冷酷、と形容してもいい。

英国社会には峻烈な人種差別があります。しかもそれはあるかなきかの密やかな様態で進行します。例えばアメリカのそれとは大きく違います。

アメリカは人種差別が世界で最も少ない国です。

これは皮肉や言葉の遊びではありません。奇を衒(てら)おうとしているのでもありません。これまで米英両国に住んで仕事をしその他の多くの国々も見聞した、筆者自身の実体験から導き出した結論です。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからです。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからです。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡り非常に目立ちます。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見えます。

だがそうではない。自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い、ひたすら前進しようと努力しているのがアメリカという国です。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だったことは言うまでもありません。

物事を隠さず直截に扱う傾向が強いアメリカ社会に比べると、英国社会は少し陰険です。人種差別は、先述したようにさり気なく目立たない仕方で進行します。

人々は遠回しに物を言い、扱います。言葉を替えれば大人のずるさに満ちている。人種差別でさえしばしば婉曲になされます。そのため差別の実態が米国ほどには見えやすくない。

差別があからさまには見えにくい分、それの解消へ向けての動きは鈍ります。だが人種差別そのものの強さは米国に勝るとも劣りません。

人種差別の重篤な英国社会でのし上がった有色人種のスナク首相やブレイバーマン前内相は、もしかすると彼らを差別した白人に媚びて同胞に厳しく当たっているのではないか、と見えたりもします。

媚びるのは2重の心理的屈折があるからです。一つは有色人種の難民・移民は「私も嫌いだ」と白人に示して仲間意識を煽ろうとする心理。もう一つは同じルーツを持つ人々を拒絶して、(自らが参入することができている)白人支配層の権益を守りたい、という願いからの動きです。

後者には実利もあります。白人の権益を守れば自分のそれも庇護され上騰するからです。

保守党の有色人種の権力者である彼らは、元々のイギリス人つまり白人よりもより強い白人至上主義似の思想を秘匿していて、白人の保守主義者よりもさらに右よりの政治心情に傾くようです。

昨年10月、リシ・スナク氏が英国初の非白人の首相として颯爽と就任演説を行う様子を、筆者は同じアジア人として誇らしく見つめました。

政治的には相容れないものの、彼が白人支配の欧州で少数派の有色人種にも優しい眼差しを注ぐことを期待しました。

だがその期待は裏切られました。彼の政治手法は筆者が密かに懸念していたように、いわば“褐色のボリス・ジョンソン”とも呼ぶべき彼の前任者に似た白人至上主義系の流儀に親和的なものでした。

彼はまた、自らと同じ人種系列のスエラ・ブレイバーマン氏を内務大臣に招聘しました。ブレイバーマン氏は“赤銅色のドナルド・トランプ”とでも呼びたくなるほど、弱者への差別的な言動が多い人物です。

アジア人且つ黄色人種でありながら、意識してまた無意識のうちにも自らを白人と同じに見なす日本人は、表が黄色く中身が白い「バナナ」です。

そうした人々は、往々にしてネトウヨヘイト系排外差別主義者ですが、それは権力者も一般人も同じです。イギリスのネトウヨヘイト系の差別排外主義者の大物が、つまりスナク首相やブレイバーマン前内相、と考えれば分かりやすいかもしれません。

「バナナ」と同じ心理状況にあるらしいスナク首相やブレイバーマン氏は、さしずめ表が褐色で中身が白い「ココナッツ」でもあるでしょうか。

スナク首相やブレーマン前内相は、厳しい人種差別の眼差しを撥ね返してイギリス社会で出世しました。あるいは自らのルーツを嫌い同胞を見下し彼らにつらく当たる手法で出世の階段を昇りました。

出世した彼らは同国のエリートや富裕層がひしめく保守党内でものし上がりました。階段を上るに連れて、彼らは白人の保守主義者よりもより白人的な、いわば白人至上主義者的な保守主義者になって行きました。

そこには有色人種としての劣等感と自らを劣等ならしめている物を厭う心根がありました。彼らが白人の保守主義者よりも移民や難民またパレスチナ人などの弱者に冷たいのは、先に触れたように屈折した心理ゆえと考えられます。

アメリカの保守主義勢力、共和党内にも有力な有色人種の政治家はいます。例えばコリン・パウエル元国務長官、コンドリーザ・ライス元国務長官など。またロイド・オースチン現国防相も黒人です。

アメリカの有色人種の権力者たちは、イギリスの同種の人々とは違って誰もが穏やかです。あるいは常識的です。それはアメリカ社会が、紆余曲折を繰り返しながらも、人種差別を確実に克服して行く明るい空気の中にいるせいであるように見えます。

片やイギリスの有色人種の政治家の猛々しい言動が、攻撃的な中にも絶えず悲哀と憐憫のベールをまとっているように見えるのは、恐らくアメリカとはまた違う厳しい社会状況が生み出す必然、と感じるのは筆者だけでしょうか。

 

 

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ハマスをテロリストと呼ばないBBCの気骨

イギリス公共放送のBBCが、ハマスをテロリストと呼ばないことを批判する勢力があります。同国のスナク首相を筆頭にする保守主義者が中心です。

ハマスをテロリストと見るか否かは、政治的な立ち位置の問題に過ぎません。

BBCはそのことを正確に知っていて、「テロリストとは人々が倫理的に認めたくない集団を呼ぶ言葉」であり「政治的な色合いを伴う感情的な表現」と規定しています。

筆者も全く同じ考えでいます。

だが、もう少し自分の考えを付け加えればテロリストとは、政治的な目的を達成するために暴力を振るう自らと自らの支持者以外の者や組織のことです。

従って今このときの中東危機に照らして言えば、イスラエルから見るハマスはテロリストです。逆にイスラエルはハマスに言わせれば大テロリストです。

また、イスラエルを支持する欧米から見たハマスもテロリストの組織です。

片やハマスを支持するアラブ各国またイスラム教国のイランやトルコに言わせれば、イスラエルだけがテロリストです。

もっと言えば、無差別攻撃でパレスナ人民を殺害するテロリストであるスラエルに加担する欧米各国は、パレスチナ側の窮状を見て見ぬ振りをする偽善者でありテロ支援者です。

BBCの主張に戻ります。

BBCは前述の論点に加えて、「BBCは誰が誰に対して何をしているかを視聴者が自ら判断できるように客観的に報道する。また何が起きたのかを説明することで、視聴者に全貌を伝える」とも主張しています。

筆者はその姿勢を全面的に支持します。

BBCの立場に異を唱える者は、必ず自らの政治信条や思い込みまた感情を盾にし、拠り所にしていると知るべきです。

BBCとは違ってハマスをテロリストと呼ぶ者は、イスラエルをテロリストと呼ぶ者と全く同様に、自らの政治信条と倫理的好悪の感情に基づいてそう主張しています。

筆者は客観的に見て、両者ともにテロリストであり同時にテロリストではないと考えています。ただし両者ともに、テロリストではないと規定される場合でも、双方は「テロ行為を働いてている」と判断します。

そしてなぜ彼らがテロ行為を行うのかの「動機」を考えた場合、イスラエル側により大きな責任があると考えます。

なぜならイスラエルは、「パレスチナは神がユダヤ人に与えた土地」と主張するシオニストが、他人の土地を侵略しそこに住まう人々を追い出して作られた国家だからです。

パレスチナが神からユダヤ人に贈られた土地であるなら、そこは神がパレスチナ人に与えた土地でもあるのが理の当然です。

神話の世界に過ぎない旧約聖書の世迷言を根拠に、他人の土地を強奪した上に住人を殺戮し抑圧し排除しているのがイスラエルでありシオニストです。

パレスチナ側は1948年以来イスラエルの横暴に抵抗し続けました。その過程で生まれたパレスチナ解放運動がPLOでありハマスでありヒズボラ等々の組織です。

彼らをテロリストと呼ぶなら、イスラエルもテロリストです。しかも後者はより巨大且つ悪辣な国家テロ組織です。

BBCがハマスをテロリストと呼ばない頑なな姿勢は、報道者として見上げたものです。

ただBBCが、ハマスはテロリストではないのだから「テロ行為も働いていない」と考えているならば、イスラエルを一方的に擁護する英スナク首相やその他のほとんどの欧米首脳らと同じく、「たわけ」そのものだとも付け加えておきたいと思います。

 

 

 

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ユダヤ人の悲運はイスラエルの横暴の免罪符にはならない。が・・ 

アメリカを筆頭にする欧米列強がイスラエル支持で一つにまとまる中、各国民の中にはイスラエルへの反発心も確実に高まっているように見えます。

筆者もハマスの蛮行に怒りを覚えつつ、イスラエルの横暴に違和感を持ち、そう発言し続けています。

何かが劇的に展開しない限りおそらくそのスタンスは変わりません。

しかし、イスラエルという国家の暴虐によってあるいは忘れ去られるかもしれないユダヤ人の悲しみについては、必ず胸に刻み続けて行きたいと思います。

欧州では、ローマ帝国がユダヤ人をエルサレムから放逐して以降、彼らへの偏見差別が続きました。差別の最も奥深いものは、ユダヤ人がイエス・キリストを殺した、という思い込みです。

固陋で未開な僻見が欧州人の目を曇らせ続けました。ユダヤ人の2000年の苦悩の本質は、そこから発生した差別にほかなりません。

差別ゆえに彼らは当時軽蔑されていた金融業に就くことを余儀なくされました。幸運にもそれは彼らに莫大な富ももたらしました。

金持ちで知的能力が高く、且つキリスト教とは相容れない異質の宗教とそれに付随する生活習慣に固執するユダヤ人は、欧州人による執拗な偏見差別の対象になりました。

パレスチナから追放されて以後、辛酸を舐め続けたユダヤ人の不幸は、20世紀になってヒトラーが先導したホロコーストによって最高潮に達しました。

イスラエルが自身の存続と防衛に死に物狂いで取り組むのは、その国民であるユダヤ人が欧州で差別され殺戮され排除され続けてきた悲惨な過去があるからです。

彼らは国を持つことによって、無残な過去への回帰を避けようとします。彼らの必死の思いはイスラエルに匹敵する数のアメリカのユダヤ人とその他の世界中のユダヤ人に熱烈に支持されます。

イスラエル国民の寄る辺なさと恐怖と悲しみは、欧米を始めとする世界各国のユダヤ人の寄る辺なさと恐怖と悲しみとそっくり同じものです。

差別と抑圧に苦しめられたユダヤ人の国のイスラエルが、弱者であるパレスチナの住民を抑圧し殺戮するのは、見るのも耐え難い歴史の皮肉です。

だが今現在のイスラエルを観察する限り、彼らは自己保身に集中するあまり、イスラエル建国までのユダヤ人と同じ境遇にあるパレスナ民衆の苦しみが見えなくなっているようです。

イスラエルが専制君主とも見えるパレスチナVSイスラエルの抗争に於いて、欧州が米国と共に頑強にイスラエル支持に回るのは、2000年に渡ってユダヤ人を抑圧してきた過去への償いの思いがあるからです。

それは欧州の良心の発露です。

大半がキリスト教徒である欧州人は、ユダヤ人を迫害してきたことへの後ろめたさと、同時に反ムスリムの心情からもユダヤ人国家のイスラエルを強く擁護します。

イスラエル建国は、間接的には欧米の力、特にオスマン帝国に続いて当時パレスチナを支配していたイギリスの暴挙によるものです。

イギリスは当時、アラブVSユダヤの争いに音を上げて卑怯にもパレスチナの混乱から身を引きました。その空白を縫ってユダヤ人がイスラエルの建国を宣言した、というのが史実です。

これに対してアラブ連盟5ヶ国は、イスラエル建国宣言と同じ日に同国に宣戦布告。翌15日にはパレスチナに侵攻して第1次中東戦争が始まりました。

イスラエルはその戦いでアラブ連合を撃破。そこからイスラエルによる過酷なパレスチナ支配が始まります。

歴史に連綿と刻まれたユダヤ人の悲運は、決してイスラエルの横暴の免罪符にはなりません。

だが、われわれは同時に、彼らの巨大な悲しみもまた決して忘れてはならないとも思います。 

 

 

 

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ハマスの攻撃もそれへの報復も同じ穴のムジナの蛮行である

10月7日、ハマスがイスラエルを攻撃。残虐行為を働きました。被害者のイスラエルはすぐに応酬。ハマスに劣らない凶悪さでガザ地区住民を虐殺し続けています。

ところがイスラエルへの非難は、ハマスへのそれに比べると弱い。

ハマスが先に手を出したことと、戦闘員が子供の首を切り落とすなどの残忍非道な行いをしたことが、世界世論の憎しみを誘ったからです。

同時に、繰り返しになりますが、報復したイスラエル側の攻撃も酷いものになりました。それにしては彼らに対する視線は寛容すぎるほど寛容です。

欧米は反ハマス一辺倒です。それはイスラエル支持につながり、イスラエルのガザへの反撃は自衛のためのものだから正当、という議論を呼びます。

その延長で、ここイタリアでは反イスラエルまたパレスチナ擁護の立場の者への、魔女狩り的な動きさえ出ています。

イタリアのユダヤ人喜劇俳優 モニ・オヴァディアは、イスラエルの無差別攻撃を断罪して劇場から締め出されました。

アラブ世界の抑圧的な政治を批判して英雄扱いされたエジプト人青年、パトリック・ザキは、ハマスの攻撃にはそれなりの理由があると発言しただけで、イタリアの名誉市民権を剥奪されようとしています。

またドイツでは、イスラエルに批判的なパレスチナ人女性作家アダニア・シブリが激しい論難にさらされています。

一方的にイスラエルだけを擁護する言説は危険です。

ハマスのイスラエルへの残虐な無差別攻撃は、むろん許しがたいものです。

だがそこに至るまでには、イスラエルによるパレスチナ人民への抑圧、侵略、虐殺行為などが頻発してきたのもまた事実です。

パレスチナ人とユダヤ人は、2000年の長きに渡ってほぼ無縁の時間を過ごした後、イスラエル建国に続いたユダヤ人の一方的なパレスチナ占領によって、抑圧と抵抗が雪だるま式に膨れ上がり、連鎖していく悲劇に陥りました。

血で血を洗う闘争は、ハマスに始まるアラブ強硬派とイスラエル右派またユダヤ原理主義勢力が消滅しない限り終わることはありません。

和平への道は常に彼らが閉ざしてきました。今回の武力衝突もパレスチナの過激派とイスラエルの極右勢力が引き起こしたものです。そして2者は永遠に妥協もしなければ消滅もしないように見えます。

武力衝突を止めさせる力を持つ欧米列強は、イスラエル支持でほぼ一枚岩になっていて、アラブまたパレスチナの敵意を喚起し続け、やはりどうしても虐殺の連鎖を断ち切ることはできません。

それはつまり、病院爆破に象徴されるイスラエルとパレスチナの無残な殺し合いは果てしなく続き、民間人の犠牲は今後も増え続けていくということうを意味しています。

 

 

 

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