地中海が気温50℃の“火中海”になる時

イタリアは文字通り燃えるほどの猛暑に見舞われています。

南部のシチリア島では8月11日、欧州の最高気温となる48,8℃を記録しました。それまでの欧州記録は1977年ギリシャのアテネで観測された48℃です。

なお、1999年に今回と同じシチリア島で48,5℃が観測されましたが、それは公式の記録としては認められていません。

欧州とは思えないほどの熱気はアフリカのサハラ砂漠由来のもの。

広大な砂漠の炎熱は、ヒマラヤ山脈由来の大気が日本に梅雨をもたらすように、地中海を超えてイタリアに流れ込み気象に大きな影響を及ぼします。よく知られているのは「シロッコ」。

熱風シロッコはイタリア半島に吹き付けて様々な障害を引き起こしますが、最も深刻なのは水の都ベニスへの影響。

シロッコは秋から春にかけてベニスの海の潮を巻き上げて押し寄せ、街を水浸しにします。ベニス水没の原因の一つは実はシロッコなのです。

48、8℃を記録した今回の異様な気象は、アフリカ起源の暑熱に加えて地球温暖化の影響が大きいと見られています。

シチリア島では熱波と空気乾燥によって広範囲に山火事が起きました。

シチリア島に近いイタリア本土最南端のカラブリア州と、ティレニア海に浮かぶサルデーニャ島でも山林火災が次々に勃発し、緊急事態になっています。

同じ原因での大規模火災は、ギリシャやキプロス島など、地中海のいたるところで発生しています。

熱波と乾燥と山火事がセットになった「異様な夏」は、もはや異様とは呼べないほど“普通”になりつつありますが、山火事に関してはイタリア特有の鬱陶しい現実もあります。

経済的に貧しい南部地域に巣くうマフィアやンドランゲッタなどの犯罪組織が、人々を脅したり土地を盗んだりするために、わざと山に火を点けるケースも多々あると見られているのです。

イタリアは天災に加えて、いつもながらの人災も猖獗して相変わらず騒々しい。

偶然ですが、ことし6月から7月初めにかけての2週間、筆者はいま山火事に苦しんでいるカラブリア州に滞在しました。

その頃も既に暑く、昼食後はビーチに出るのが億劫なほどに気温が上がりました。

夕方6時頃になってようやく空気が少し落ち着くというふうでした。

それでもビーチの砂は燃えるほどに熱く、裸足では歩けませんでした。

人々の話では、普段よりもずっと暑い初夏ということでした。今から思うとあの暑さが現在の高温と山火事の前兆だったようです。

北イタリアの筆者の菜園でもずっと前から異変は起きていました。

4月初めに種をまいたチンゲン菜とサントー白菜が芽吹いたのはいいのですが、あっという間に成長して花が咲きました。

花を咲かせつつ茎や葉が大きくなる、と形容したいほどの速さでした。

チンゲン菜もサントー白菜も収穫できないままに熟成しきって、結局食べることはできませんでした。

温暖化が進む巷では、気温が上昇する一方で冷夏や極端に寒い冬もあったりして、困惑することも多い。

しかし菜園では、野菜たちが異様に早い速度で大きくなったり、花を咲かせて枯れたり、逆に長く生き続けるものがあったりと、気温上昇が原因と見られる現象が間断なく起きています。

自然は、そして野菜たちは、確実に上がり続けている平均気温を「明確」に感じているようです。

だがいかなる法則が彼らの成長パターンを支配しているかは、筆者には今のところは全くわかりません。

今回のイタリアの酷暑は、バカンスが最高に盛り上がる8月15日のフェラゴスト(聖母被昇天祭)まで続き、その後は徐々にゆるむというのが気象予報です。

だがいうまでもなくそれは温暖化の終焉を意味しません。

それどころか、暑さはぶり返して居座り、気温の高い秋をもたらす可能性も大いにありそうです。

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開会式で五輪マークを神輿に改造した日本のケセラセラ

東京五輪の開幕式の様子をやや否定的な気分でテレビ観戦しました。思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じました。

「例によって」というのは、国際的なイベントに際して、日本人が疎外感を穴埋めしようとしてよく犯す誤謬にはまっていると見えたからです。

英語にnaiveという言葉があります。ある辞書の訳をそのまま記しますと:

「(特に若いために)世間知らずの、単純な、純真な、だまされやすい、(特定の分野に)未経験な、先入的知識のない、甘い、素朴な」

などとなります。

周知のようにこの言葉は日本語にも取り込まれて「ナイーブ」となり、本来のネガティブな意味合いが全てかき消されて、純真な、とか、感じやすい、とか、純粋な、などと肯定的な意味合いだけを持つ言葉になっています。

五輪開会式のパフォーマンスには、否定的なニュアンスが強い英語本来の意味でのnaiveなものがいっぱいに詰まっていると思いました。意図するものは純真だが、結果は心もとない、とでもいうような。

それは五輪マークにこだわった開会式典の、コアともいうべきアトラクションに、もっともよく表れていました。

美しい空回り

日本独特の木遣り唄に乗せて職人が踊るパフォーマンスは興味深いものでした。トンカチやノコギリの音が打楽器を意識した音響となって木霊し、やがて全体が大仕掛けの乱舞劇へとなだれ込んでいく演出は悪くなかったと思います。

しかしすぐに盛り下がりが来ました。

踊る職人たちの大掛かりな仕事の中身が、「木製の五輪マーク作り」だった、と明らかになった時です。

演出家を始めとする制作者たちは、日本文化の核のひとつである木を用いて、「オリンピックの理念つまり核を表象しているところの五輪マーク」を創作するのは粋なアイデアだ、と自画自賛したに違いありません。またそれを喜ぶ人々も多くいたようです。

英国のタイムズ紙は、開会式が優雅で質朴で精巧だった、とかなり好意的に論評しました。パンデミックの中での開催、また日本国民の不安や怒りなどが影響して、あまり悪口は言えない雰囲気があったのだと思います。

木遣り唄のパフォーマンスは、タイムズ紙が指摘したうちの質朴な要素に入るのでしょうが、実際にはそれは、日本人の屈折した心理が絡んだ複雑極まる演出で、質朴とはほど遠いものでした。

なぜなら職人たちが作ったのは五輪マークという「神輿」だったからです。

五輪マークは技量抜群の職人と伝統の木遣り唄によって神輿に改造され、現実から乖離し神聖になり、担いで崇めてさえいればご利益があるはずの空虚な存在になりました。

傍観者

五輪マークに異様なまでに強くこだわるその心理は、世界の気分と乖離していると筆者は感じました。

五輪の理念や理想や融和追求の姿勢はむろん重要なものです。

だがそれらは、日本が建前やポーズや無関心を排して、真に世界に参画する行動を起こすときにこそ意味を持ちます。

しかし日本はその努力をしないままに、世界や日本自身の問題に対しスローガンや建前を前面に押し出すだけの、いわば傍観者の態度で臨んでいることが多い。

具体的に言えば例えば次のようなことです。

日本は先進国でありながら困難に直面している難民に酷薄です。また実質は「移民」である外国人労働者に対する仕打ちも、世界の常識では測れない冷たいものであり続けています。

日本国内に確実に増え続けている、混血の子供たちへの対応も後手後手になっています。彼らをハーフと呼んで、それとも気づかないままに差別をしているほとんどの国民を啓蒙することすらしない。

世界がひそかに嘲笑しているジェンダーギャップ問題への対応もお粗末です。対応する気があるのかどうかさえ怪しいくらいです。

守旧派の詭弁

夫婦同姓制度についても、女性差別だとして日本は国連から夫婦別姓に改正するよう勧告を受けています。

するとすぐにネトウヨヘイト系保守排外差別主義者らが、日本の文化を壊すとか、日本には日本のやり方がある、日本には夫か妻の姓を名乗る自由がある、などという詭弁を声高に主張します。日本政府は惑わされることなく、世界スタンダードを目指すべきなのに、それもしません。

夫婦別姓で文化が壊れるなら、世界中のほとんどの国の文化が壊れていなければなりません。だが全くそうはなっていません。

その主張は、男性上位社会の仕組みと、そこから生まれる特権を死守したい者たちの妄言です。

日本の法律では夫か妻の姓を名乗ることができるのは事実です。だがその中身は平等とはほど遠い。ほとんどの婚姻で妻は夫の姓を名乗るのが現実です。そうしなければならない社会の同調圧力があるからです。

同調圧力は女性に不利には働いています。だから矯正されなければならない、というのが世界の常識であり、多くの女性たちの願いです。

言うまでもなく日本には、何事につけ日本のやり方があって構わない。だがその日本のやり方が女性差別を助長していると見做されている場合に、日本の内政問題だとして改善を拒否することは許されません。国内のトランプ主義者らによる議論のすり替えに惑わされてはならないのです。

五輪は世界に平和をもたらさない

それらの問題は、日本が日本のやり方で運営し施行し実現して行けばよい他の無数の事案とは違って、「世界の中の日本」が世界の基準や常識や要望また世論や空気を読みながら、「世界に合わせて」参画し矯正していかなければならない課題です。

日本が独自に解決できればそれが理想の形ですが、日本の政治や国民意識が世界の常識の圏外にあるばかりではなく、往々にして問題の本質にさえ気づけないような現状では、「よそ」を見習うことも重要です。

日本は名実ともに世界の真の一員として、世界から抱擁されるために、多くの命題に本音で立ち向かい、結果を出し、さらなる改善に向けて行動し続けなければなりません。

「絆を深めよう」とか、「五輪で連帯しよう」とか、「五輪マークを(神輿のように)大事にしよう」とか、あるいは今回の五輪のスローガンである「感動でつながろう(united by emotion)」などというお題目を、いくら声高に言い募っても問題は解決しません。

オリンピックは連帯や共生やそこから派生する平和を世界にもたらすことはありません。世界の平和が人類にオリンピックをもたらすのです。

そして平和や連帯は、世界の国々が世界共通の問題を真剣に、本音で、互いに参画し合って解決するところに生まれます。

今の日本のように、世界に参加するようで実は内向きになっているだけの鎖国体制また鎖国メンタリティーでは、真に世界と連携することはできません。

五輪開会式に漂う日本式の「naive」なコンセプトに包まれたパフォーマンスを見ながら、筆者はしみじみとそんなことを頭に思い描いたりしました。

無垢な誤謬

この際ですから次の事柄も付け加えておこうと思います。

古い日本とモダンな日本の共存、というテーマも五輪の意義や理想や連帯にこだわりたい人々が督励したコンセプトです。

そのことは市川海老蔵の歌舞伎十八番の1つ「暫(しばらく)」と女性ジャズピアニストのコラボに端的に表れていました。

日本には歴史と実績と名声が確立した伝統の歌舞伎だけではなく、優秀なモダンジャズの弾き手もいるのだ、と世界に喧伝したい熱い気持ちは分かりますが、筆者は少しも熱くなりませんでした。

必死の訴えかけにやはりnaiveな孤独の影を見てしまったのです。

古い歌舞伎に並べて新しい日本を世界に向けてアピールしたいなら、例えば開会式の華とも見えた「2000台近い発行ドローンによる大会シンボルマークと地球の描写」をぶつければよかったのに、と思いました。

ドローンによるパフォーマンスこそ日本の技術の高さと創造性が詰まった新しさであり、ビジョンだと感じたのです。日本の誇りである「大きな」且つ「古い」歌舞伎に対抗できるのは、ひとりのジャズピアニストではなく、その新しいビジョンだったのではないでしょうか。

さらに、意味不明のテレビクルーのジョークはさて置き、孤独なアスリートや血管や医療従事者などのシンボリックなシーンは、手放しでは祝えない異様な五輪を意識したもの、と考えれば共感できないこともありません。だが、残念ながらそこでも、再び再三違和感も抱きました。

そもそも心から祝うことができないない五輪は開催されるべきではありません。

しかし紆余曲折はあったものの、既に開催されてしまっているのですから、一転してタブーを思い切り蹴散らして、想像力を羽ばたかせるべきではないか、と感じました。アートに言い訳など要らないのです。

オリンピックは、例えば「バッハ“あんた何様のつもり?”会長」の空虚でむごたらしいまでに長い「挨拶風説教」や、政治主張や訓戒や所論等々の強要の場ではなく、世界が参加する祝祭です。祝祭には祝祭らしく、活気と躍動と歓喜が溢れているほうがよっぽど人の益になると考えます。

最後に、自衛隊による国旗掲揚シーンは、2008年中国大会の軍事力誇示パフォーマンスほど目立つものではありませんでしたが、過去の蛮行を一向に総括しようとはしない守旧日本の潜在的な脅威の表象、という意味では中国の示威行動と似たり寄ったりのつまらない光景、と筆者の目には映りました。

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秘境のヤギ煮込みは噛むほどに味が深まる「秘すれば花」レシピだった

6月から7月初めにかけて滞在したカラブリア州では、いつものように地域グルメを満喫しました。

今回の休暇でも、1日に少なくとも1回はレストランに出かけました。昼か夜のどちらかですが、初めの1週間はこれまた例によって、1日に2度外食というのがほとんどでした。

しかし時間が経つに連れて、美食また飽食に疲れて2度目を避けるようになったのも、再び「いつもの」成り行きでした。

海のリゾートなので食べ歩くレストランではまず魚介料理に目が行きました。

海鮮のパスタは全く当たり外れがなく、全てが極上の味でした。

イタリアではそれが普通です。パスタの味が悪いイタリアのレストランは「あり得ない」と断言してもかまいません。 もしあるならそれはまともなレストランではありません

イタリアにおけるレストランのレベルは、パスタを食べればすぐに分かる、というのが筆者の持論です。

一方、魚そのものの料理の味わいは、いつも通りだと感じました。

つまり日本食以外の世界の魚料理の中では1、2を争う美味さだが、日本の魚料理には逆立ちしてもかなわない、という味です。

そんな訳で結局、魚介膳はパスタに集中することになりました。

それに連れて、メインディッシュは肉料理が多くなりました。

そこでもっとも印象に残ったのは、黒豚のロースト・秘伝ソース煮込みです。肉を切るのにナイフはいらず、フォークを押し当てるだけでやわらく崩れました。

口に入れるととろりと舌にからんでたちまち溶けました。

芳醇な味わいと、甘い残り香がいつまでも口中に漂いました。

肉料理に関してはさらに驚きの、全く予期しなかった出来事もありました。

なんと筆者が追い求めているカプレット(子ヤギ肉)の煮込み料理に出会ったのです。味も一級の上を行くほどの秀逸なレシピでした。

場所はカラブリア州コセンザ県の山中の町、チヴィタのレストランです。

チヴィタは15世紀頃にバルカン半島のアルバニアからイタリアに移り住んだ、「アルブレーシュ」と呼ばれる人々の集落です。アルブレーシュの集落がコセンツァ県には30箇所、カラブリア州全体では50箇所ほどあるとされます。

キリスト教のうちの正教徒であるアルブレーシュの人々は、彼らの故郷がイスラム教徒のオスマントルコに侵略されたことを嫌って、イタリア半島に移住しました。

チヴィタは広大なポッリーノ国立公園内にあるよく知られた町で、アルバニア系住民を語るときにはひんぱんに引き合いに出されます。

アルブレーシュの人々は、むろん今はイタリア人です。彼らは差別を受けるのでもなければ、嫌われたりしているわけでもありません。

イタリア人は、日本人を含む世界中の全ての国民同様に、混血で成り立っています。

そのことをよく知り且つ多様性を誰よりも愛するイタリア人は、自らのルーツを忘れずに生き続けるアルブレーシュの人々を尊重し親しんでいます。

筆者はそうした知識を持って滞在地から30キロほど離れた山中にあるチヴィタを訪ねました。

そこでチヴィタ独特のカプレット(子ヤギ)料理があると聞かされたのです。

それまではアルブレーシュの人々が、ヤギや羊肉料理に長けているとは思ってもみませんでした。

筆者はイタリアを含む地中海域の国々を訪ねる際には、いつもカプレットや子羊を含むヤギ&羊肉料理を食べ歩きます。むろん他の料理も食べますが、ヤギや羊肉は地中海域独特の膳なので集中して探求するようになりました。

初めは珍味どころか、ゲテモノの類いにさえ見えていたヤギ&羊肉膳は、最近ではすっかり筆者の大好きな料理になっています。

以前はそれを見るさえいやだ、と怒っていた妻も、今では筆者と同じか、あるいはさらに上を行くかもしれないほどのヤギ&羊肉料理愛好家になってしまいました。

カラブリア州でも「ヤギ&羊肉を食べるぞ」計画を立てて乗り込みましたが、海際のリゾート地にはそれらしい料理は見当たりませんでした。

山中のチヴィタで初めて、思いがけなく出会ったのです。

チヴィタで食べたカプレットの煮込みは、これまでに食べたヤギ&羊肉料理のなかでもトップクラスの味がしました。

食べながら少し不思議な気がしました。

ヤギや羊肉を好んで食べるのは、イスラム教徒を主体にする中東系の人々です。宗教上の理由から豚肉を避ける彼らは、自然にヤギや羊肉の調理法を発達させました。

アルバレーシュはキリスト教徒です。従ってイスラム教徒やユダヤ教徒、また中近東系のほとんどの人々とは違いヤギや羊を好んでは食べない、と筆者は無意識のうちに思い込んでいました。

だが思い返してみると実際には、地中海域のキリスト教徒もヤギや羊をよく食します。イスラム教徒の影響もあるでしょうが、ヤギや羊は地中海地方のありふれた家畜ですから、彼らも自然に食べるようになった、というのが歴史の真実でしょう。

チヴィタでよく知られたレストランは、どこでもカプレット料理を提供していました。他のアルブレーシュの町や村でも同じだといいます。

アルブレーシュ風のヤギ・羊肉膳は、ソースやタレで和えた煮込みと焼きレシピが主ですが、肉を様々にアレンジしてパスタの具にする場合もあります。

チヴィタでは日にちを変えて3件のレストランを訪ね、それぞれが工夫を凝らしたカプレット料理を堪能しました。

また、滞在地から遠くない内陸の村にもアルブレーシュの女性が経営するレストランがあり、カプレット料理を出すことが分かりました。チヴィタのレストランで得た情報です。

早速訪ねてカプレットの煮込みを食べてみました。そこの味も出色でした。

場所が近いのでもう一度訪ねて、今度はカプレットの炭火焼きに挑戦しようと思いましたが、時間が足りず叶いませんでした。

そのレストランもチヴィタの店も、もう一度訪ねたい気持ちは山々ですが、旅をしたい場所や国は多く、人生は短い。

果たして再び行き合えるかどうかは神のみぞ知る、というところです。


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発展途上のリゾート地も面白い

エーゲ海まで

6月から7月初めにかけての2週間イタリア本土最南端のカラブリア州に遊びました。

正確に言えば、カラブリア州のイオニア海沿岸のリゾート。

ビーチを出てイオニア海をまっすぐ東に横切ればギリシャ本土に達する。そこからさらに東に直進すればエーゲ海に至る、という位置です。

地中海は東に行くほど気温が高くなり空気が乾きます。

今回の滞在地は、西のティレニア海に浮かぶサルデーニャ島と東のエーゲ海の中間にあります。エーゲ海の島々とサルデーニャ島が筆者らがもっとも好んで行くバカンス地です。

2021年初夏のカラブリア州のビーチは、定石どおりにサルデーニャ島よりは気温は高いものの、空気はやや湿っていました。

しかし、蒸し暑いというのではなく、紺碧の空と海を吹き渡る風が、ギラギラと照りつける日差しを集めて燃え、心地良い、だが耐え難い高温を運んでは去り、またすぐに運び来ました。

それは四方を海に囲まれた島々にはない、大陸に特有の高温です。筆者はイタリア半島が、まぎれもなく大陸の一部であることを、いまさらのように思い起こしたりしました。

今回も例によって仕事を抱えての滞在でした。だが、やはり例によって、できる限り楽しみを優先させました。

イタリア最貧州と犯罪組織

カラブリア州はGDPで見ればイタリアで1、2を争う貧しい州です。

だがそこを旅してみれば、果たして単純に“貧しい”と規定していいものかどうか迷わずにはいられません。

景観の中には道路脇にゴミの山があったり、醜悪な建物が乱立する無秩序な開発地があったり、ずさんな管理が露わなインフラが見え隠れしたりします。

行政の貧しさが貧困を増長する、南イタリアによくある光景です。カラブリア州の場合はあきらかにその度合いが高いと分かります。

時としてみすぼらしい情景に、同州を基盤にする悪名高い犯罪組織“ンドランゲッタ”のイメージがオーバーラップして、事態をさらに悪くします。

イタリアには4つの大きな犯罪組織があります。4つとも経済的に貧しい南部で生まれました。

それらは北から順に、ナポリが最大拠点のカモラ、プーリア州のサクラコロナユニタ 、カラブリア州のンドランゲッタ、そしてシチリア島のマフィアです。

近年はンドランゲッタが勢力を拡大して、マフィアを抑えてイタリア最大の犯罪組織になったのではないか、とさえ見られています。

貧困の実相

それらの闇組織は貧困を温床にして生まれ、貧困を餌に肥え太り、彼らに食い荒らされる地域と住民は、さらに貧しさの度合いを増す、という関係にあります。

だが、そうではあるものの、カラブリア州の貧しさは「“いうなれば”貧しい」と枕詞を添えて形容されるべき類いの貧しさだと筆者は思います。

つまりそこは、やせても枯れても世界の富裕国のひとつ、イタリアの一部なのです。

住民は費用負担がゼロの皆保険制度によって健康を守られ、餓死する者などなく、失業者には最低限の生活維持に見合う程度の国や自治体の援助はあります。

それとは別に、よそ者である筆者らが2週間滞在したビーチ沿いの宿泊施設は快適そのものでした。海に面した広大なキャンプ場の中にある一軒家です。

海で休暇を過ごすときにはほぼ決まって筆者らはそういう家を借ります。今回の場合は普通よりもベランダが広々としていて、快適度が一段と増しました。

旅人たちは憩う

筆者らは朝早い時間と夕刻にビーチに向かいます。

波打ち際を散歩し、泳ぎ、パラソルの下で読書をし、気が向けばアペリティブ(食前酒)を寝椅子まで運んでもらい、眠くなれば素直にその気分に従います。

そうした動きもまた、海で休暇を過ごすときの筆者らのお決まりの行事です。

今回は少しだけ様子が違いました。

昼食後にビーチに向かう時間が普段よりもかなり遅くなりました。降り注ぐ日差しが強烈過ぎて、午後6時ころまでビーチに出る気がしないのです。

空気は熱く燃え、ビーチの砂は裸足で歩けば確実に火傷をするほどに猛っていました。

今回の休暇でも、1日に少なくとも1回はレストランに出かけました。昼か夜のどちらかですが、初めの1週間は、これまた例によって1日に2度外食というのが普通でした。

しかし時間が経つに連れて、美食また飽食に疲れて2度目を避けるようになったのも、再び「いつもの」成り行きでした。

食べ歩いたレストランはどこも雰囲気が良く、頼んだ料理はことごとく一級品でした。

カラブリア州の可能性

宿泊施設もレストランもあるいは地元住民とは無縁の、「貧しさの中の富裕」とでも形容するべき特権的な事象かもしれません。

しかし、旅人が利用する宿泊施設はさておき、レストランは地元民も利用します。それは地元の人々の嗜好を反映し、いわば民度に即した形で存在する施設です。

そこで提供される食事も、特に地域グルメや郷土料理の場合は、地元民自身が美味い食事をしていない限り、旅人にとってもおいしいという料理は生まれません。

つまり強烈な陽光と青い海に恵まれた「貧しい」カラブリア州は、イタリア随一のバカンス地であるサルデーニャ島や、ギリシャのエーゲ海域にも匹敵する可能性を秘めた、いわば「発展途上の」リゾート地というふうに感じられました。

 

 

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殺人鬼も保護する進歩社会はつらくないこともない

ノルウェー連続テロ事件からちょうど10年が経ちました。

事件では極右思想にからめとられたアンネシュ・ブレイビクが、首都オスロの市庁舎を爆破し近くのオトヤ島で10代の若者らに向けて銃を乱射しました。

爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が惨殺されました。

殺人鬼のブレイビクは、禁固21年の刑を受けました。

そして11年後には早くも自由の身になります。

事件が起きた2011年7月以降しばらくは、ブレイビクが死刑にならず、あまつさえ「たった」21年の禁固刑になったことへの不満がくすぶりました。

だがその不満は実は、ほぼ日本人だけが感じているもので、当のノルウェーはもちろん欧州でもそれほど問題にはなりませんでした。

なぜなら、欧州ではいかなる残虐な犯罪者も死刑にはならず、また21年という「軽い」刑罰はノルウェーの内政ですから他者は口を挟みませんでした。

人々はむろん事件のむごたらしさに衝撃を受け、その重大さに困惑し怒りを覚えました。

だが、死刑制度のない社会では犯人を死刑にしろという感情は湧かず、そういう主張もありませんでした。

ノルウェー国民の関心の多くは、この恐ろしい殺人鬼を刑罰を通していかに更生させるか、という点にありました。

ノルウェーでは刑罰は最高刑でも禁固21年です。従ってその最高刑の21年が出たときに彼らが考えたのは、ブレイビクを更生させる、というひと言に集中しました。

被害者の母親のひとりは「1人の人間がこれだけ憎しみを見せることができたのです。ならば1人の人間がそれと同じ量の愛を見せることもできるはずです」と答えました。

また当時のストルテンベルグ首相は、ブレイビクが移民への憎しみから犯行に及んだことを念頭に「犯人は爆弾と銃弾でノルウェーを変えようとした。だが、国民は多様性を重んじる価値観を守った。私たちは勝ち、犯罪者は失敗した」と述べました。

EUは死刑廃止を連合への加盟の条件にしています。ノルウェーはEUの加盟国ではありません。しかし死刑制度を否定し寛容な価値観を守ろうとする姿勢はEUもノルウェーも同じです。

死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮です。筆者は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定します。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、あと11年で釈放されることにはやはり割り切れないものを感じます。

死刑がふさわしいのではないか、という野蛮な荒ぶった感情はぐっと抑えましょう。死刑の否定が必ず正義なのですから。

しかし、犯行後も危険思想を捨てたとは見えないアンネシュ・ブレイビクの場合には、せめて終身刑で対応するべきではないか、とは主張しておきたい。

その終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑と言いたいところですが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところでしょうか。

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PK戦は選手と監督のタッグ・マッチ

2020サッカー欧州選手権では、イタリアがイングランドとのPK戦を制して優勝しました。

PK戦を偶然が支配するイベントと考える者がいるが、それは間違いだ、と筆者は前のエントリーで書きました。

そこでは主に選手に焦点をあてて論じました。

実はPK戦にはもうひとつの側面があります。そのこともPK戦にからむ偶然ではなく、戦いの結末の必然を物語っています。

PKを蹴る5人の選手を決めるのは、たいていの場合監督です。

監督のなくてはならない重要な資質のひとつに、選手の一人ひとりの心理やその総体としてのチームの心理状況を的確に読む能力があります。

監督は優れた心理士でなければ務まらないのです。

監督は大きなプレッシャーがかかるPK戦に際して、選手一人ひとりの心理的状況や空気を察知して、気持ちがより安定した者を選び出さなければなりません。

緊張する場面で腰が入っているのは選手個人の特質ですが、それを見抜くのは監督の力量です。その2つの強みが合わさってPKのキッカーが決まります。

より重要なのは選手の心理の様相を見抜く監督の能力。それは通常ゲーム中には、選手交代の時期や規模に託して試合の流れを変える手腕にもなります。

監督はそこでも卓越した心理士でなければなりません。

代表チームの監督は、各クラブの監督とは違って、いかに有能でも優れた「選手を作り出す」ことはできません。彼の最重要な仕事は、国内の各チームに存在する秀でた「選手を選択」することです。

選択して召集し、限られた時間内で彼らをまとめ、鍛え、自らの戦略に組み込みます。彼が選手と付き合う時間はとても短い。

ナショナルチームの監督は、その短い時間の中で選手の心理まで読む才幹を備えていなければなりません。厳しい職業です。

イタリアのマンチーニ監督は、あらゆる意味で有能な軍師であり心理士です。長く不調の底にいたイタリアチームを改造して、53年ぶりの欧州選手権制覇へと導いた器量は賞賛に値します。

欧州選手権の決勝戦では特に、彼は力量を発揮して通常戦と延長戦を戦い、最後にはPK戦でも手際を見せてついに勝利を収めました。

一方、敢えて若い選手をキッカーに選んで敗れたイングランドチームのサウスゲート監督は、「誰が何番目にPKを蹴るかを決めたのは私。従って敗れた責任は私にある」と潔く負けを認めました。

イタリアのマンチーニ監督も、もし負けていれば同じコメントを残したことでしょう。

2人の天晴れな監督の言葉を待つまでもなく、PK戦とは2チームが死力を尽くして戦う心理戦であり、偶然が支配するチャンスはほぼゼロと見なすべきサッカーの極意なのです。

 

 

 

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イングランドのサッカーは子供のゲームにも似ている

子供の夢

2020サッカー欧州選手権で、決勝まで勝ち進んだイングランドのサッカーは、子供のゲームにも似ています。

サッカーのプレーテクニックが稚拙な子供たちは、試合では一刻も早くゴールを目指したいと焦ります。

そこで七面倒くさいパスを避けてボールを長く高く飛ばして、敵の頭上を越え一気に相手ゴール前まで運びたがります。

そして全員がわーっとばかりに群がってボールを追いかけ、ゴールに蹴りこむために大騒ぎをします。

そこには相手陣営の守備の選手も参加して、騒ぎはますます大きくなります。

混乱の中でゴールが生まれたり、相手に跳ね返されてボールが遠くに飛んだり、自陣のゴール近くにまで蹴り返されたりもします。

するとまた子供たちが一斉にそのボールの周りに群がる、ということが繰り返されます。

相手の頭上を飛ぶ高く速いボールを送って、一気に敵陣に攻め込んで戦うというイングランド得意の戦法は、子供の稚拙なプレーを想起させます。

イングランドの手法はもちろん目覚しいものです。選手たちは高度なテクニックと優れた身体能力を活かして敵を脅かします。

そして往々にして見事にゴールを奪います。子供の遊びとは比ぶべくもありません。

子供たちが長い高い送球をするのは、サッカーの王道である低いパスをすばやくつないで敵を攻めるテクニックがないからです。

パスをするには正確なキック力と広い視野とコントロール法が必要です。

またパスを受けるには、トラップと称されるボール制御術と、素早く状況を見渡して今度は自分がパスをする体勢に入る、などの高度なテクニックがなくてはなりません。。

その過程で独創と発明と瞬発力が重なったアクションが生まれます。

優れたプレーヤーが、敵はもちろん味方や観衆の意表を衝く動きやパスやキックを披露して、拍手喝采をあびるのもここです。

そのすばらしいプレーが功を奏してゴールが生まれれば、球場の興奮は最高潮に達します。


スポーツオンリーの競技

イングランドのプレーヤーたちももちろんそういう動きをします。テクニックも確立しています。

だが彼らがもっとも得意とするのは、直線的な印象を与える長い高いパスと、それを補足し我が物にしてドリブル、あるいは再びパスを出して、ゴールになだれ込む戦法です。

そこにはアスリート然とした、速くて強くてしかも均整の取れた身体能力が要求されます。

そしてイングランドの選手は誰もがそんな印象を与える動きをします。

他国の選手も皆プロですからもちろん身体能力が普通以上に高い者ばかりです。だが彼らの場合にはイングランドの選手ほど目立ちません。

彼らが重視しているのはもっと別の能力だからです。

つまりボール保持とパスのテクニック、回転の速い頭脳、ピッチを席巻する狡猾なアクション等が彼らの興味の対象です。

言葉を変えれば、低い短い正確なパスを多くつないで相手のスキを衝き、だまし、フェイントをかけ、敵を切り崩しては出し抜きつつじわじわと攻め込んで、ついにはゴールを奪う、という展開です。

そこに優れたプレーヤーによるファンタジー溢れるパフォーマンスが生まれれば、観衆はそれに酔いしれ熱狂します。

子供たちにとっては、サッカーの試合は遊びであると同時に身体を鍛えるスポーツです。

ところがイングランドのサッカーは、遊びの要素が失われてスポーツの側面だけが強調されています。

だからプレーは速く、強く、きびきびして壮快感があります。

だが、どうしても、どこか窮屈でつまらない。

子供のころ筆者も楽しんだサッカーの手法が、ハイレベルなパフォーマンスとなって展開されるのですが、ただそれだけのことで、発見や発見がもたらす高揚感がないのです。


ボール保持率の意味

決勝戦は1―1のスコアのまま延長戦まで進み、終了しました。

そのことをもってイタリアとイングランドの力は拮抗している。PK戦でイングランドが破れたのはただの偶然ではないか、と主張する人がいます。

両チームの得点数はそれぞれ1ゴール、と確かに接戦に見えます。

だがゲームの中身はイタリアの圧勝、と表現しても過言ではないものでした。

それはボールの保持率に如実にあらわれています。

イタリアは得意のパス戦術で65%のボールを支配しました。一方、イングランドのそれは35%。

ここにもイタリアがパス回しを重ねてゴールを狙い、イングランドが長い送球を主体に攻撃を組み立てている実態が示されています。

イングランドは中空にボールを飛ばし、長いパスを送って選手がそれを追いかけます。その間ボールは彼らの足元を離れています。

一方イタリアは、地を這うような低い短いパスを選手間でひんぱんに交わしながら進みます。その間ボールは、ずっと彼らの支配下にあります。

ボールを常に足元に置いておけば、いつかはシュートのチャンスが訪れます。

ボール保持率とは、言葉を変えれば、シュートの機会の比率でもあります。

それを反映して決勝戦でのイタリアのシュート数は19本。イングランドは6本でした。

そのうちゴールを脅かしたのはイタリアが6本、イングランドがわずかに2本です。

イングランドはそのうちの1本が見事にゴールに突き刺さったのでした。

つまり試合は、ほぼ3対1の割合でイタリアが優勢だったのです。

あるいはこうも言えます。

両チームの得点は客観的に見て、 3-1という内容だったのだ、と。


高速回転の知的遊戯

サッカーのゲームの見所は、短く素早く且つ正確なパスワークで相手を攻め込んで行く途中に生まれる意外性です。

意表を衝くプレーにわれわれは魅了されます。

イタリアの展開には例によって多くの意外性があり、おどろきがありました。それを楽しさと言い換えることもできます。

運動量豊富なイングランドの展開も、それが好きな人には楽しいものだったに違いありません。

だが彼らの戦い方は「またしても」勝利を呼び込むことはありませんでした。

高く長く上がったボールを追いかけ、捉え、再び蹴るという単純な作業は予見可能な戦術です。

そしてサッカーは、予測を裏切り意表を衝くプレーを展開する者が必ず勝ちます。

それは言葉を変えれば、高度に知的で文明的でしかも高速度の肉体の躍動が勝つ、ということです。

ところがイングランドの身体能力一辺倒のサッカーには、肉体の躍動はありますが、いわば知恵者の狡猾さが欠けています。だからプレーの内容が原始的にさえ見えてしまいます。

イングランドは彼らの「スポーツサッカー」が、イタリア、スペイン、フランス、ドイツ、ブラジル、アルゼンチンなどの「遊戯サッカー」を凌駕する、と信じて疑いません。

でも、イングランドにはそれらの国々に勝つ気配が一向にありません。1996年のワールドカップを制して以来、ほぼ常に負けっぱなしです。

イングランドは「夢よもう一度」の精神で、1966年とあまり変わり映えのしない古臭いゲーム展開にこだわります。

継続と伝統を重んじる精神は尊敬に値しますが、イングランドは本気でイタリアほかのサッカー強国に勝ちたいのなら、退屈な「スポーツサッカー」を捨てるべきです。


次回ワールドカップ予測

来年のワールドカップでは、イングランドが優勝するのではないか、という意見も聞かれます。しかし筆者はその考えには同調しません。

理由はここまで述べた通り、イングランドサッカーが自らの思い込みに引きずられて、世界サッカーのトレンドを見誤っていることです。

イングランドサッカーが目指すべき未来は、今の運動量と高い身体能力を維持しながら、イタリア、ブラジル、スペインほかのラテン国、あるいはラテンメタリティーの国々のサッカーの技術を徹底して取り込むことです。

取り込んだ上で、高い身体能力を利してパス回しをラテン国以上に速くすることです。つまりドイツサッカーに近似するプレースタイルを確立すること。

その上で、そのドイツをさえ凌駕する高速性をプレーに付加する。

ドイツのサッカーにイングランドのスピードくわわれば、それはおそらく今現在考えられる最強のプレースタイルではないでしょうか。

イングランドがそうなれば真に強くなるでしょう。が、彼らが謙虚になって他者から学ぶとは思えません。

従って筆者は、来年のW杯でのイングランドの優勝は考えてみることさえできません。

2022年W杯の優勝候補はやはりブラジル、イタリア、スペインと考えます。ブラジルはW杯5回優勝の実績を買い、イタリアはマンチーニ監督によって真の復活を遂げた点を評価します。

イタリアはここしばらくは好調を維持し、勝利の連鎖回路に入ったと見ます。

スペインは不調とはいえ、そのイタリアを2020欧州選手権の準決勝で苦しめました。彼らのポゼッションサッカーの強靭はまだ生きているように思えます。

次にランクされるのはフランス、ドイツ、また先日のコパ・アメリカ(サッカー南米選手権)でブラジルを抑えて優勝したアルゼンチンです。

その次に最新のFIFAランキングで一位に据えられたベルギー、そしてオランダ。そこに加えて、C・ロナウドが彼の全盛時の80%以上のパフォ-マンスをするなら、という条件付きでポルトガル。

その次にイングランドを置きます。つまり、優勝候補は相も変わらずのメンバーで、イングランドは小国ながら今を盛りのベルギーと実力者のオランダのすぐ下にいます。

言葉を変えてはっきりと言います。イングランドは活躍する可能性はありますが、優勝の目はまずありません。

理由は-何度でも繰り返しますが-イングランドが自負と固陋の入り混じった思い込みを捨てない限り、決して世界サッカーの最強レベルの国々には勝てない、と考えるからです。


生き馬の目を抜く世界サッカー事情

欧州と南米のサッカー強国は常に激しく競い合い、影響し合い、模倣し合い、技術を磨き合っています。

一国が独自のスタイルを生み出すと他の国々がすぐにこれに追随し、技術と戦略の底上げが起こります。するとさらなる変革が起きて再び各国が切磋琢磨をするという好循環、相乗効果が繰り返されます。

イングランドは、彼らのプレースタイルと哲学が、ラテン系優勢の世界サッカーを必ず征服できると信じて切磋琢磨しています。その自信と努力は尊敬に値しますが、彼らのスタイルが勝利することはありません。

なぜなら世界の強豪国は誰もが、他者の優れた作戦や技術やメンタリティーを日々取り込みながら、鍛錬を重ねています。

そして彼らが盗む他者の優れた要素には、言うまでもなくイングランドのそれも含まれています。

イングランドの戦術と技術、またその他の長所の全ては、既に他の強国に取り込まれ改良されて、進化を続けているのです。

イングランドは彼らの良さにこだわりつつ、且つ世界サッカーの「強さの秘密」を戦略に組み込まない限り、永遠に欧州のまた世界の頂点に立つことはないでしょう。

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PK戦も物にするのが真の強者

2020サッカー欧州選手権では、イタリアがイングランドとの戦PK戦を制して優勝しました。

PK戦を偶然が支配するイベントと考える者がいます。それは間違いです。

PK戦は通常戦と延長戦における2チームの拮抗を証明はしますが、決して偶然性を証明するものではありません。

それどころかPK戦は、そこまでの120分間の戦いにも勝る、選手の体力と気力と技術の高さが求められる過酷な時間です。

そして何よりも重要なのは、PK戦が神経戦そのものである事実です。

技術も能力もある選手が往々にしてゴールを外すのは、心的プレッシャーが巨大だからです。

イタリアの至宝ロベルト・バッジョが、1994年のW杯決勝のPK戦で、勝敗を分けるキックをはずしてワールドカップ優勝を逃したのも、プレッシャーが原因です。

ほかにもPK戦にまつわるドラマは数多くあります。

今回の欧州杯でも優勝候補の筆頭と目されていたフランスのエース、エムバペがトーナメント初戦のPK戦で痛恨の失敗をしてフランスが敗退しました。

PK戦はサッカーのルール内にある非情な戦いです。

各チームと選手は、普段からPK戦を想定して訓練をしておかなければなりません。

当たり前の話ですが、PK戦は90分の通常戦や延長戦と同様に勝つこともあれば負けることもあります。

PK戦が偶然に絡めとられているならば、通常戦や延長戦も偶然が支配している時間ということになります。

むろんそんなことはあり得ません。

PK戦は90分の通常戦や延長戦と全く同格のサッカーの重要な構成要素です。偶然が支配する余地などないのです。

イタリアは今大会は、準決勝も決勝もPK戦までもつれ込んでの勝利でした。

PKを実行する5人の選手にとっては、ほとんど残酷でさえある精神的重圧に耐えてゴールを決めるのは、通常ゲーム中のプレーにさえ勝る重要堅固なパフォーマンスです。

PK戦にもつれ込もうが90分で終わろうが、勝者は勝者で敗者は敗者です。

現実にもそう決着がつき、また歴史にもそう刻印されて、記録され、記憶されていきます。

試合を観戦する者は、PK戦を嘆くのではなく、120分の熾烈な競技に加えて、PK戦まで見られる幸運をむしろ喜ぶべきなのです。

 

 

 

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英国は英国を忘れない限り世界サッカーの一隅であり続ける

決勝までの歩み

2020サッカー欧州選手権はイタリアが1968年に次ぐ2度目の優勝を果たしました。

イタリアの決勝戦進出は今回が4度目でした。

選手権では、ロベルト・マンチーニ監督の手腕によって再生したイタリアが活躍するであろうことを、筆者は1次リーグの割と早い段階で予測しました。

その予側は、“負けたら終わり“のトーナメント初戦で、イタリアがオーストリアを相手に苦戦をした時に、筆者の確信になりました。

イタリアは青息吐息で勝ち抜いていく時にいつもとても強くなります。すらすらと相手を倒しているケースではコケることが多いのです。

1次リーグではイタリアはトントン拍子で勝ち進みました。3戦3勝で合計得点が7、失点が0という、ほぼ完璧にも近い戦いばかりでした。そこに少しの不安がありました。

事態が順調に進み過ぎると、よく言えばおおらか、悪く言えば軽忽なイタリアチームは、ついつい調子に乗って油断します。

結果、空中分解します。失墜しない程度に苦戦し続けるほうが強いのです。

イタリアは準決勝でもスペインを相手に苦戦しました。のみならず、ボール保持率ほぼ70%対30%と大人と子供の試合のようなありさまでした。

イタリアの伝家の宝刀・Contropiede(コントロピエデ=カウンター攻撃)のおかげで120分を1-1で戦い終えて、PK戦を制し決勝進出を果たしました。

決戦開始直後の事故

イタリアとイングランドが戦った決勝戦では、試合開始2分足らずでイングランドが1点を先取しました。

このとき多くのイングランドファンは勝利を確信し、同じ数だけのイタリアファンは敗北を意識したのではないでしょうか。

イタリアファンの筆者はその時、20%の不安と80%の喜び、とまでは言いませんが、8割方は平穏な気持ちで見ていたことを告白しようと思います。

理由があります。

試合開始早々のそのゴールは、まさにイングランド的なプレースタイルが最善の形であらわれたものでした。

直線的で、速くて、高い身体能力が見事に表現されたアクション。

それこそがイングランドサッカーの最大の特徴であり、強さであり、良さであり、魅力です。

そして同時にまさにそれこそが、イタリア的プレースタイルのチームと相対したときのイングランドサッカー最大の欠点であり、不条理であり、弱さなのです。

そして筆者はこれまで何度も述べてきたように、そのことをもってイングランドサッカーは退屈と感じ、そう主張します。

そして退屈なサッカーは必ず敗北するとも。

いつか来た道

イングランドは、分かりやすいように極端に単純化して言えば、長く速く高いボールを敵陣に蹴り込むのが得意です。

それをフォワードが疾駆して追いかけ、捕らえてゴールを狙います。

そこでは選手のボールコントロール能力や技術よりも、駆けっこの速さと敵の守備陣を蹴散らす筋肉と高い身体能力、また戦闘能力が重視されます。

決勝戦の初っ端のたった2分で起きた“事件”はまさにそういうものでした。

だからこそ筆者は平穏にそれを見ていたのです。

シュートとしたルーク・ショー は、イタリアのディフェンダーとは肉体的に接触しませんでした。

彼は高く飛んできたボールを、ほぼボレーに等しいワンバウンドでゴールに蹴り込みました。

そうしたシュートはほとんどの場合成功することはありません。空いているゴールの領域と角度があまりにも狭く、キックするアクションそのものも咄嗟の動きで、ボールの正確な軌跡は望めないからです。

だがショーのキックは、タイミングを含む全てがうまくかみ合って、ボールは一瞬でゴールに吸い込まれました。

言うまでもなくそこにはイングランドのすばらしい攻撃力とショーの高いテクニックが絡んでいます。

だが、それはいかにも「イングランドらしい」得点の仕方で、デジャヴ感に溢れていました。

イングランドがそんな形のサッカーをしている限り、イタリアには必ず勝機が訪れることを筆者は確信していました。

イタリアはやはり追いつき、延長戦を含む120分を優勢に戦って最後はPK戦で勝利を収めました。

イタリアの真髄

イタリアは、主に地を這うようなボールパスを繰り返してゴールを狙うチームです。

そういう攻撃スタイルの師範格はスペインです。

今このときのイタリアは、パス回しとボール保持力ではまだスペインにかなわないかもしれませんが、守備力とカウンターアタック力では逆にスペインを寄せ付けません。

そうしたボール保持を攻撃の要に置くスタイルを基本にしているサッカー強国は、イタリアとスペインのほかにフランス、ポルトガル、オランダ、ブラジル、アルゼンチン等々があります。

それらのチームはボールを低く、速く、正確にパスでつないで、敵陣のペナルティエリアまで運ぶことを目的に進撃します。

一方イングランドは、パスはパスでも敵の頭上を超える長く速い送球をして、それを追いかけあるいは待ち受けて捕らえてシュートを放ちます。

繰り返しになりますが、単純に言えばその戦術が基本にあります。それは常に指摘されてきたことで陳腐な説明のように見えます。

そのことを裏付けるように、イングランドも彼らなりに地を這うパス回しを懸命に習得し実践もしています。

だが彼らのメンタリティーは、やはり速く高く長い送球を追いかけ回すところにあります。

あるいはそれをイメージの基本に置いた戦略にこだわります。

そのため意表を衝く創造的なプレーよりも、よりアスレチックな身体能力抜群の動きが主体になるのです。

速く、強く、高く、アグレッシブに動くことが主流のプレー中には、意表を衝くクリエイティブなパスやフェイントやフォーメーションは生まれにくくなります。

サッカーは単なるスポーツではなく、高速の知的遊戯

観衆をあっと驚かせる作戦や動きやボールコントロールは、選手がボールを保持しながらパスを交し合い、敵陣に向けてあるいは敵陣の中で素早く動く途中に生まれます。

ボールを保持し、ドリブルをし、パスを送って受け取る作業を正確に行うには高いテクニックが求められます。

その上で、さらに優れたプレーヤーは、誰も思いつかないパスを瞬時に考案し送球します。

そこで相手ディフェンスが崩れてついに得点が生まれます。

というふうな作戦がイングランドには欠けています。

いや、その試みはあることはあるのですが、彼らはやはりイングランド的メンタリティーの「スポーツ優先」のサッカーにこだわっています。

サッカーは言うまでもなくスポーツです。

だが、ただのスポーツではなく、ゲームや遊びや独創性が目まぐるしい展開の中に潜んでいる戦いであり、エンターテインメントであり、知的遊戯なのです。

イングランドはそのことを認めて、「スポーツ偏重」サッカーから脱皮しない限り、永遠にイタリアの境地には至れないと思います。

むろんイタリアは、フランス、スペイン、ブラジル、アルゼンチン、などにも置き換えられます。

またそれらの「ラテン国」とは毛並みが違いプレースタイルも違いますが、ドイツとも置き換えられるのは論をまちません。

 

 

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イングランドの最終奇跡は成るか 

欧州選手権の準決勝でイングランドがデンマークを破って決勝に進出しました。

イングランドはもうひとつの準決勝戦でスペインを倒したイタリアと決勝戦を戦います。

今回大会のイングランドは強い。

なんといってもドイツを負かしたことがその証です。

ドイツは絶不調とはいえ、腐っても鯛。終始一貫、首尾一貫、 筋金入り エバーグリーンのサッカー強国です。

そしてイタリアは、筆者の独断と偏見ではドイツをも凌ぐサッカー大国。

イングランドが決勝でイタリアも粉砕すれば、彼らの強さは本物中の本物と証明されるでしょう。

イングランドは1966年のワールドカップの決勝でドイツを倒して以来、主要な国際大会ではドイツに勝てずにきました。

ドイツはイングランドにとっては、55年も目の上にこびり付いた大きなタンコブでした。

そのドイツを2-0で撃破しました。

そして勢いを保ったまま、決勝リーグ2回戦ではウクライナから4ゴールも奪って快勝。

次の準決勝では延長戦の末にデンマークも下しました。

だが、イタリアはイングランドに比較するともっと強く、ずっと強く、あたかも強く、ひたすら強い。

何が根拠かですって?

サッカー「やや強国」のイングランドは、ワールドカップを5世紀も前、もとへ、55年前に一度制しています。準優勝は無し。

つまり自国開催だった1966年のたった一度だけ決勝まで進みました。

片やイタリアはW杯で4回も優勝しています。準優勝は2度。つまり決勝戦まで戦ったのは合計6回。

欧州選手権では、イタリアは1回の優勝と2回の準優勝、計3回の決勝進出の歴史があります。

今回が4度目の決勝進出。

実に強いのです。

一方、イングランドは欧州選手権では、 1度も優勝していません。準優勝もありません。

つまり、決勝進出は0回。

3位決定戦に進んだことは1度あります。

でも、3位とか4位とかってビリと何が違うのでしょうか?

あと筆者の感情的な見方もあります。そこでもなぜかイタリアが強いのです。

イングランドのサッカーは、直線的で力が強くて速くてさわやかでスポーツマンシップにあふれています。

イタリアのサッカーは、曲がりくねってずるくて意表をついて知恵者の遊戯の如く創造性にあふれています。

筆者はイングランド的なメンタリティーも嫌いではありません。

だが、ことサッカーに関しては、アマチュアのフェアプレイ至上主義、あるいは体育会系のド根性精神みたいなものの影を感じて引いてしまいます。

退屈と感じます。

そして、サッカーの辞書には退屈という文字はありません。

従って退屈なサッカーは究極には必ず負ける。

イングランドが、退屈ではないサッカーを実行するイタリア、フランス、スペイン、ポルトガルなどに比較して弱いのはそこが原因です。

発想が奔放、という意味では上記4国に近いブラジルやアルゼンチンに負けるのも同じ理由です。ドイツに負けるのは、創造性故ではなくただの力負けだけれど。

そんなわけで、7月11日の決勝戦ではどうやらまたイタリアが勝つみたい。

でも、イングランドも欧州選手権史上初の決勝進出を果たしたのですから侮れません。

もしもイングランドが勝てば、それは「退屈」なサッカーが勝ったのではなく、イングランドが退屈なサッカーワールドから抜け出して、楽しく創造的な現代サッカーのワンダーランドに足を踏み入れたことを意味します。

それを未開から文明への跳躍、と形容してもかまいません。

なので2020欧州選手権の覇者はイタリアでもイングランドでもどちらでも異存はありません。

でも、突然ですが、イングランドはBrexitを決行したから嫌いです。

なので、できればイタリアが勝ったほうが精神衛生上ヨロシイ。

以上

 

 

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